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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

哲学2019 第三回 夢と現実 「香る闇」(『蟲師 続章』)

哲学(吉田) 第三回 「現実」

本日のテーマ:「夢と現実は区別できるのか?」
先週:「哲学」とは何か? 「哲学の有用性」について

復習
「哲学」=生活の前提となる重要概念(「現実」「時間」「私」「意味」など)を再検討する学問→生活・社会というゲームのプレイではなく、ルールを検討する学問
哲学の有用性=哲学の知は、「知識」と言えるか? →役に立つのか?

グルーープワークの報告からアイデアを挙げてみます

○役に立つ
残っているから有用なのでは?
視野の拡大、思考の柔軟性、多様性、豊さ
新しい技術・状況を扱うのに必要
他者理解、寛容性、共生へ
思考を深める
今ある社会・学問・文化基盤理解
新しい考え方、創造性
論理的思考の訓練
間接的に役に立つ
思考の核になる
意思決定、人生の目的
人生の構え、心の支え
自分らしさ、人間らしさ
・常識=思い込みの批判は有用(≒プラトン
・(精神的)治療である、救いである
・就職活動・面接で役に立つ(卒業生)

×役に立たない
なくても困らない、生活に必要ではない
金にならない、経済的価値を生まない
単体では使えない
正解がない、学びづらい
定義があいまい
必要かどうかはひとによる
「哲学」とは何かが分からない
へりくつ、生産的ではない、時間の無駄
すでに役割を終えた学問
思い込み、宗教のようなもの
・ナンセンス(≒ウィトゲンシュタイン
・(精神的)病気になる、自殺する

コメント
吉田の考え:与えられたゲームのやり方を身につけ、あとはただプレイするだけが人間・人生というものなら哲学は不要
哲学が有用かどうか、この授業も参考に、自分なりの納得のいく考えを探してほしい
哲学的思考=批判的思考=テーゼ&アンチテーゼを立てて検討する
=ただ有用と言い張るのではなく、有用ではないというアイデアも検討する(逆も)⇒「知識」「有用」「人生」「他者」などの基本概念への検討に進む

本日からのテーマ:「夢と現実は区別できるのか?」

1:「問い」
1 夢⇔現実 なら、なぜ、
2 夢(夢⇔現実)⇔現実 ではないのか? そして、
3 夢(夢(夢⇔現実)⇔現実)ではないのか?

 「現実」は夢(仮の世界)かもしれないという思想
 うつしよ(現世)⇔とこよ(常世・浄土・神の国) 神道・仏教・キリスト教
胡蝶の夢(邯鄲の枕)
懐疑論懐疑主義
プラトン(影:洞窟⇔イデア:実在)
 カント(現象⇔もの自体:実在)

2:作品
蟲師 続章』「香る闇」
これを夢と現実の区別の物語と観ることはすこし強引な観方かもしれない。
だが、この物語は、「唯一の現実」だと思いこんでいる世界・人生が、もしかしたら、じつは、「唯一の現実」ではないかもしれない、という設定、そして、その「現実」の中から、それに気づくことができるのだろうかという問いにリアリティを与えてくれるだろう。

3:課題:「この現実は夢かもしれない」という懐疑から抜け出すことはできるだろうか?
自分のアイデアを簡単にメモしておこう→学務情報システム

次回:デカルト省察』など 古典検討
デカルト懐疑論に抗して→近代的な知的大陸を切り開く
デカルトの懐疑「私はじつは夢を見ているのではないか?」とその検討、を検討してみよう

参考
吉田の検討
【哲学2016 第五回 「枕小路」から夢と現実について考える&哲学・思想の本について】(Blog2735)https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57303522.html
【哲学2015】 日本の思想 4 『蟲師』の思想1 「枕小路」
(Blog2735)https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56791184.html
「『涼宮ハルヒ』の独我論 (誌上シンポジウム『涼宮ハルヒの憂鬱』) (吉田寛静岡大学情報学研究』、2013)
https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8773&file_id=31&file_no=1
バーチャルリアリティのリアリティはなぜバーチャルなのか」(吉田寛京都大学文学部哲学研究室紀要 : Prospectus』2001)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/50684

関連作品
映画『マトリックス』(The Matrix)、1999年、アメリカ、ウォシャウスキー兄弟(姉妹)
マトリックス-1(Blog2735)https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56266558.html
『流れとよどみ』大森荘蔵、産業図書、1981
ドグラマグラ夢野久作社会思想社、1976=1935
映画『ドグラマグラ』1988、活人堂、松本俊夫監督

哲学2019 第二回 第一回「花惑い」のコメント返し

哲学2019年 第一回小レポ コメント
2019年4月15日

蟲師』(漆原友紀原作、長濵博史監督 2005・2014)「花惑い」より
作品:桜の精のような女性の延命のため、旅人の命を奪う一族の物語。

課題:作品等について、自分の関心(とのつながり)、感想、質問、要望等、短く記入してみてください。100字程度。
入力できなかった人は、課題をプリントアウトして、手書きでコメント作成して提出したら、多少ハンデをつけて評価します。

感想:「美」や「愛」に生きるのは理解できる→「作品の力」もあるかも。ニュース報道だったら?
一族に共感する人/不可解な人があるようです。

Q:一族の行動は、倫理・人間性に反するのか?
共感、あるいは理解できる⇒人や文化それぞれの感覚・価値 (文化)相対主義構成主義、主観主義など
反する・犯罪で言語道断⇒人間として本質的な倫理がある 本質主義、(価値・美)実在論
⇒関連して、「世界に本質が存在しないことが世界の本質である」なんて命題について、あなたはどう思いますか?
「倫理」、「文化」について、それぞれ深く検討する機会が授業の予定にあります。お楽しみに。

Q:哲学の視点は、有用性があるのか?
⇒どうでしょう? これは本日のテーマです。「有用性」ということから分析してみよう。

Q:哲学の視点・問題は、「些細なこと」にこだわっているのか?
⇒逆に、「大げさなこと」過ぎるかなとも思っていました。確かに、日常の生活感覚からすると何も気にする切迫性がないことかも。私の感覚がズレているのかもしれないのでお互いに注意が必要。
さしあたり、「ルール」の問題と「プレイ」の問題の区別をして、「問題」について整理してみましょう。

感想:一族は彼らなりに「幸福」のよう。長く生きるのが「幸福」とも思えない。
子孫を残すことが幸せなのだろうか?
「恋愛」や「友情」、「結婚」「人生」「幸福」「正義」など、身近な人同士でも案外、かけ離れた概念で生活しているかも。。なんだか恐いような気もしますね。哲学の視点、哲学の有用性とも関連するところかと思います。

Q:「蟲師」って何者?
もちろん、創作の設定ですが、だいたい「世界の不思議な現象、とくにトラブルに対して、原因や対処法を研究したり、治療実践したりすることを仕事にしている人びと」というイメージです。
世界や人生のさまざまなトラブルに対して蟲師の目で内在的にアプローチすることで哲学的な問題を意識化できるので、この授業ではこの作品を手掛かりにしていきます。

作品への感想 いろいろ
好き嫌い、さまざまな解釈があって当然。自分の観方は大切にして、同時に、教員や友達の観方を参考に、自分の観方をより深めてみてください。

Q:アニメから哲学の問題に迫れるのか?
授業では、物語を一つの想像、思考実験として受け取り、これを手掛かりに哲学的問題や立場を構成して検討してみたいと考えています。
哲学的な問題に、専門用語だけによるのではなく、生活レベルの言葉、経験から迫ることができることが、メリットだと思います。哲学用語による概念化は、この授業の実習的な内容になりますし、私からも適宜情報提供します。

その他、作品の紹介、二ーチェ等の哲学者について、自分自身の問題等、印象的なコメントもありました。
参考文献等 資料やブログに載せるものもあるけど、話の流れや思いつきで紹介するものもあります。

哲学(第一回) ガイダンス回  2018年4月10日

哲学(第一回) ガイダンス回
 2018年4月10日

本日のテーマ:「哲学は役に立つのか?」

本日:「哲学」とは? ガイダンス、作品から考える
来週:「哲学の有用性」「哲学の使い方」「哲学の意味」について

シラバスについて
公開遅れすみません。1-7回はだいたいの目安。以下を組み合わせて、哲学しましょう。

授業の目標 哲学とは自分の存在の前提となるような、基礎的な概念(ものの見方、捉え方)を再検討する学問です。たとえば、「存在」「現実」「時間」「私」「倫理」「社会」「自然」などについての捉え方は、生きていく上での前提・基盤になるものです。ふだんの生活の中ではこうした哲学的な概念を取り上げてそれについて特別に考えることはあまりないでしょう。哲学はこういった概念について集中的に考える学問です。ときには哲学的に考えることで人生はずっと深く豊かなものになるでしょう。この授業では、手がかりを提供しながら、いくつかの哲学的な概念を検討し、哲学を体験する機会を提供します。

学習内容 いくつかの哲学的な基本概念について、私から哲学的論点を解説します。哲学的論点とは、基礎的な概念、たとえば「現実」や「時間」について、対立する見方、捉え方です。こうした論点について、過去の哲学者たちの考え方を比較検討してみたり、アニメ『蟲師』等の作品を見ながら理解を深めたりします。哲学カフェの方式で、グループでディスカッションをする機会も作りたいと思います。こうして、哲学的な論点を検討することで、自分の存在や社会の常識の前提になっている見方について、意識的に捉え直したいと思います。

講義スタイル
 講義(テーマの解説など)
 文献(適宜紹介→最終レポートでも役に立つ)
 ディスカッション(「哲学カフェ」)
 作品(『蟲師』 解説or検討)で進めてみよう。
 評価:哲学の評価とは?
 Blog2735

講義:哲学とは何か?
ph.Dとは? 歴史 ギリシャ→自由七科→近代・諸学の母→大学の核
 日本では文学部に 文学に近い? 文献学(『聖書的』)の輸入学問 生き方
 「デカンショ」 教養主義⇒大衆化 フランス(リセ)・アメリカ(実践)での哲学
 「哲学カフェ」 論文、文献だけでない哲学運動 実践からの哲学
 『ソクラテスの弁明』 「対話」「よく生きる」

作品:「花惑い」(『蟲師』)
折しも花の季節。「花惑い」という話に哲学的な論点を探してみましょう。物語が説得的に描かれていることが、思想の可能性を暗示していると考えてみよう。

作品要約
山奥の桜の巨木には泡状の木霊という蟲がついている。近くの庭師の一家は、この桜の精というべき異常なまでに美しい白痴の女性に仕えるため、代々訪ねてくる人を生贄にしていた。気づいたギンコはそれを止め、庭師の家と桜の木は燃えてしまう。男と女は去ったが、燃えた桜は自然の中で蘇り美しい花を咲かせる。

「花惑い」(『蟲師 続章』)からの哲学的論点
論点1:「現実」とは何か
坂口安吾に「桜の森の満開の下」という有名な作品がある。満開の桜はその異常な美しさによって人を夢うつつ・狂気の境地に誘い込む。「花惑い」は桜の美しさを体現する超常の女性に魅入られて、人里離れて、何百年も狂気に魅入られてきた一家は、現実離れした生を送っている。
あるいは、この生き方が、この一家にとっての「現実」だったのか。「人の心をひきつける」ものが「現実」であり、あまりに美しいものは、強く人の心をひきつけ、独自の「現実」を生み出してしまうのかもしれない。燃えた桜が再び花を咲かせるのは、こうした「もう一つの現実」が、どのような平和な日常のなかでも絶えず人を誘っていることを意味していることを示しているのではないか。

論点2:「人間性」とは何か
花の精である異常に美しい女性を人間として見ることができるだろうか。
人間の血によってその超常の美しさを保つ女性は、五感とともに、人間らしい判断力や感情を失っている。このことは、「美しさ」「永遠の命」といったものが「人間性」とは両立できないことを意味しているのかもしれない。だとしたら、それはなぜだろうか?

論点3:「倫理」とは何か
庭師の一族は、代々桜の精に魅入られて、人を殺め続けてきた。これは、殺人であり、生贄にされる人から見ればたまらないことで、倫理的に許されないことである。しかし、物語において、庭師一族が極悪人であるというようには感じられない。なぜだろうか。
異常性、もしくは美が倫理をキャンセルするのだろうか。あるいは、それぞれに別の倫理がある、と考えることができるというのだろうか。

論点4:「幸福」とは
庭師一族は、幸福だろうか? 彼らは、「美」に魅入られ、お金、名声、社交などの世間的な幸せには目も向けない。そして、世間的には「異常」「狂気」「犯罪」と呼ばれる生き方を選び続けてきた。彼らは満足しているとしたら、「幸福」と言っていいだろうか? また、彼らから見たら、世間の人々は幸福と言えるだろうか?

論点5:「美」とはなにか
桜のもつ異常なまでの「美」が今回の物語展開の原動力である。なぜ桜は「美しい」のだろうか。本当に桜自体が、美しいのだろうか。それとも、単なる自然現象に人が美しさを見出すのだろうか。美しいさを見出す度合いや対象が人によって異なるのはなぜだろうか。「美しい」というのはどういうことだろうか。進化や文化はどうかかわるのだろうか?

課題
学務情報システムに、本日の授業、作品等について、自分の関心(とのつながり)、感想、質問、要望等、ひとことでまとめてください。100字程度。来週月曜まで。

参考文献

『哲学する子どもたち』(中島さおり、河出書房) フランスのリセでの哲学教育など
『ビッグクエスチョンズ 哲学』(S.ブラックバーン、ディスカバー) 哲学を「問い」から見る
ウィトゲンシュタインの「はしご」』(吉田寛、ナカニシヤ書店)  私の自己紹介代わりに
蟲師』(漆原友紀講談社) 哲学的なテーマを読み取ることができるアニメ・まんが作品

講談社まんが学術文庫』(講談社、2018年~) シリーズ。哲学への導入に(レポートには使わない)。https://man-gaku.com/

情報学方法論2017 哲学からの私の社会情報学

情報学方法論(情報社会学科 2年生向)2017 吉田寛

この講義では、「自らの研究について情報学の観点から講義」することになっています。
私は、すでに1,2年生向けの「人文社会情報学」関係の講義を多数持っているので、ここでは出身分野である「哲学」と社会情報学との結びつきを中心にお話しします。最初に、情報学を学んでいるが哲学にはあまり親しみのない学生を想定して「哲学」の紹介をして、ついで私自身の哲学的テーマや社会情報学とのかかわりをお話しようと思います。

「哲学」は、2500年ほど前の古代ギリシャからの連綿と現在までつづく知的伝統で、現在の「大学」や大学で研究・教育されている学問全般のルーツであり本質を構成している学問と言えるでしょう。ひとことでまとめるなら、「物事を表面的に受け取って終わりにせず、根本から考え直してみるという姿勢」ということになると思います。どんな学問でも、対象とする現象や活動について、ただ個々の現れを見たまま感じたままに記述するだけでなく、そこから共通の特徴や応用のきく作動原理などにさかのぼって理解しようとします。そういう意味では、すべての学問は哲学です。だから、哲学には固有の専門分野というものはありません。そこで、哲学はどの分野でもまったく役に立たない学問とも言われるし、逆に、あるゆる分野で役に立つ学問とも言われます。共通性という意味では「数学」と立ち位置は似ていると思います。

 ただ、とくに現在「哲学」という個別分野で(あるいみ)専門的に研究されるのは、あらゆる分野に共通しすぎていて、個々の分野に割り振られにくいテーマです。たとえば、「世界」とは何か、「人間」とは何か、「存在」とは何か、「善/悪」とは何か、「幸福」とは何か、「正義」とは何か、「心」とは何か、「知」とは何か、「美」とは何か、などのテーマです。こういった問いについての答えは、あらゆる分野の学問・活動に影響を与えます。情報システムや情報サービスを工夫して提案するにしても、たとえば「善/悪」の判断は基本的に押さえておかなければならないでしょうし、その上で「幸福」についての見通しを含むものでなければ、評価はされないでしょう。だから、専門的な哲学も、個々の分野や活動において、それなりに重要な意味を持っていると言えます。

 逆に、哲学にとっても、個々の分野の研究成果や、提案されたアイデアやサービス、社会における評価や動向、共有されているイメージや物語などは、重要な手掛かりです。固有の専門分野を持たないので、あらゆる専門分野での成果を(慎重に吟味しつつ)用いて考察します。よくある一つの手法は、個別の研究、提案や作品にどのような思想が隠れているかを読み解き、別の時代や別の分野に見られる思想と比較しながら、評価していく方法でしょう。たとえば、ホンダの提供する人型ロボット「アシモ」の思想と、手塚治の「鉄腕アトム」の思想を比較し、さらに古代ギリシャの「パンドラの神話」などと比べながら、ロボットについての現代日本社会の受け入れている思想を明らかにするといった方法が考えられます。こうして、時代の思想を明らかにすると、そこに「人間とは何か」「心とは何か」という哲学が読み取れるわけです。これを、さらにロボットではなく、特定の文化や宗教が保持しているとみられる「人間」についての哲学、社会に大きな影響を与えた人物や著作の哲学と比較することもできるでしょう。医療の分野から出てきた哲学と照らし合わせることもあります。

こんな感じで、重要なテーマについて、まず広く見渡しながら理解を深め、その上でその時代なり、その社会なり、あるいは自分なりに解答を出す(提案する)ということをします。こうして、個々の専門分野の活動者、研究者、生活者らに対して、「人間」「心」「自然」などについて、「こう考えてはどう?」「こう考えるべきじゃないか?」などと提案するわけです。ただ、ひとは基本的に保守的で頑固な存在です。またじっさい、新しい別の可能性を考えること、横から口出しされることは、個別の活動にとってコストでもあります。だから、提案がすんなりと受け入れられることはないし、憎悪や嫌悪の標的になることもある程度は覚悟しておく必要があります。ですが、事故や災害を考えても分かるように、いろいろな可能性を考えておくことはある程度必要なことで、ロボット開発やサービスにしても、頭を柔らかくしていろいろ考えておくことが賢いことだと思われます。専門分野の人は一つの可能性に向かって先頭を突き進むタイプだとしたら、哲学とは最後尾で、他の分野やここまでの道のりなども眺めつつ、自分たちの位置や方向を再確認する役割だと言えるでしょう。

 私が関わってきた哲学研究は、ウィトゲンシュタインという20世紀前半に活躍した哲学者の議論です。彼は、言語の研究を通じて20世紀の学問全体に「言語論的転換」と言われる大事件を起こした重要な一人です。数学や自然科学の分野で、何となくの共通了解となってきた基礎的な原理や定義、手続きや常識などが、論理的に整備されることになりました。人文社会系の学問分野ではさらに影響は大きく、言語をベースにすることで、西洋の既存の知や権威による、独善的な解釈や特権意識が鋭く問い直されるようになりました。ウィトゲンシュタインは言語をベースにすることで、当時あらゆる分野を説明・支配するかの見えた「科学」(的知識)の限界を検討しました。たとえば、「美」「価値」「宗教的領域」「私」「ルール」などについて、少なくとも普通の意味では合理的に議論したり、実験や観察によって答えを決めることができないと考えました。私の最初の研究は、なぜ・どのようにして、これらが科学的な知識ではないとウィトゲンシュタインが考えたのかを明らかにすることでした。

 では、私にとって哲学と社会情報学との関連はどのようになるでしょうか? たとえば、従来の典型的な人工知能は、言語によって知識を蓄え、ここに条件を与えると、この条件に応じた言葉、行動などを論理的演算によって抽出して返すというシステムでした。この仕組みで、ルールについて、あるいは自分自身について、扱うことができるでしょうか? 「ドラえもん」などの作品では、「できる」という思想が見られるかもしれないし、そういう思想を引き継いだ研究プロジェクトもありそうです。私が問題にしたいのは、たとえば本当にロボットが「自分自身」について考えることができているのか、あるいは「ただの一つの物体」について考えることができているだけなのか、という問題です。このとき、自分自身について言語を使って考えるというのはどういうことか、というウィトゲンシュタインの提案した(多くの哲学者たちが答えを試みてきた)議論、そして人工知能研究者、サービス提供・受容者らの考えを聞きながら、自分なりに答えを探し、よかったら社会に提案していくのが、哲学をベースにした私の社会情報学になります。

 テーマは、人工知能やロボットだけではありません。情報化する管理社会、地域社会と協働の在り方、哲学的思考の現代的なあり方などにも取り組んでいます。これからは、これからの時代における、自然や伝統、家族や友達などの意味にもっと踏み込んでいきたいですね。日本の哲学は、過去の哲学者の著作や思想と対峙しながら、その時代における自分の哲学を探究するのがオーソドックスなスタイルでした。私もそうやって哲学を学んできましたし、それが基本だと考えていますが、一方で、現代の他の分野の研究や活動、作品などから読み取れる思想、自分自身の活動や経験にもっと比重を置いて哲学をやっていきたいという気持ちは強く、その模索がしばらく私のテーマになっています。だから、私にとって、社会情報学は、情報化した現代社会のなかで哲学をやっていくという、ひとつの挑戦という意味があり、楽しくやっています。どんなキャリア、どんな分野のひとでも、どんな活動、生活をしているひとでも、自分に関わる問いとして「○○って何だろう」という(「哲学的」と私なら呼ぶ)疑問を持つひとと話すことは、私にとって最大の楽しみです。

おしまい。

哲学2017 授業資料 「旅をする沼」「棘(おどろ)のみち」 社会と個人

哲学2017 授業資料 「旅をする沼」「棘(おどろ)のみち」 社会と個人

社会と個人というテーマに関して、「旅をする沼」では、日本的な共同体(われわれ)について考えた。<私>に対する、「鏡が淵」では2人称、「重い実」では3人称、そして「旅をする沼」では1人称複数としての「社会」を意識した。<私>を私という存在者にするもの、すなわち私の存在の根拠にとしての社会を模索してきた。最終回の本日も、社会と個人というテーマについて、<私>のまた別の存在の仕方について考えてみよう。

「棘の道」では、ギンコを含めた「蟲師」たちの生き方に焦点が当たる。「蟲師」が社会的にどのような役割を負っているか、そしてその役割を蟲師たちがどのように受け止めているか。そこには、役割的な自己のあり方、そしてそれに収まりきらない自己が描き出される。

「役割的自己」は、「蟲師」に限った話ではなく、「教師」と「学生」、「お父さん」「お母さん」と「子ども」、「従業員」と「客」、「上司」と「部下」など、われわれの社会生活においてごく普通の存在の仕方である。これは、<私>という存在者にとって、結局は、自己の放棄なのか、自己実現なのか。それが、今回考えたい問いの一つである。100%役割に同化するということは、それがひとつの役割ということもあろうし、複数の役割を足し合わせるということもあるだろうが、それぞれ、自己を引き受けるということになるのか、あるいは自己をごまかしていることになるのだろうか。また、先週みた、「日本的共同体」とは別のあり方になるのか、社会に溶け込むという意味では同じ存在の仕方と考えるべきだろうか。

作中、「蟲師」には、普通の「村人」「お父さん」などとは少々異なり、それなりの特殊性が強調されている。それを「専門職」として捉える事ができるだろう。「専門職」とは、高度な特殊技術、専門知識や倫理的判断が必要な仕事について、それを備えた社会的役割(を担う)人々のことで、社会の側でもこれに対して育成や保護、身分や報酬の保証を提供することで職業形態として成立するとされる。ギンコの行動原理には、専門職としての「蟲師」を引き受けている様子が見られる。あらためて考えてみると、ギンコの自己紹介は「蟲師のギンコです」であり、作品シリーズのタイトルも「蟲師」である。では、専門職としての生き方とは、通常の役割的自己と同じものなのか、それとも異なるものなのか。「棘の道」では、この問いについて何人かの蟲師たちの異なる態度を読み取ることができるだろう。

参考:
波頭暁『プロフェッショナル原論』筑摩書房ちくま新書)、2006
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』ポプラ社、2010
齊藤・岩崎『工学倫理の諸相』ナカニシヤ出版、2005
黒田・伊勢田・戸田山 (編)『誇り高い技術者になろう―工学倫理ノススメ』名古屋大学出版、2004

哲学2017 授業資料「重い実」 社会と個人

哲学2017 授業資料 「重い実」 社会と個人

前回は、スワンプマンと恋愛に関連付けて、自我と他者の関係について考えた。
今回は、功利主義的な問題圏で、3人称と1人称という、見方について考察しよう。
2015年、2016年の議論を引き継ぐので、資料、参考文献はこちらを参考にしてください。

功利主義について、簡単に説明。2016年の資料参照。
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57374067.html

つぎに作品。「重い実」
ストーリーについては2015年の記事参照
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56851442.html

作品中、「ナラズの実」を使用するかどうかの問題に対する、祭主の功利主義的な判断をめぐって、われわれも考えさせられる。

Q:皆さんは、「ナラズの実」を最初に使用した祭主の判断に同意しますか?
Q:それはなぜですか?

Q:祭主は最後に「ナラズの実」を使用するのを躊躇したでしょうか。
Q:なぜでしょうか。
Q:皆さんは、祭主の最後のナラズの実を使用する判断に同意しますか?

功利主義は人間を、自分も含めて3人称的な対象として眺め、公平に功利を計算し、全体の最適を考えて最終判断を下すべきという考えです。
ただし、ここでは<私>の視点は抜け落ちているように見える。最終判断において、あるひとが<私>だったかスワンプマンだったかは、判断者にとって問題にならないだろう。いや問題にしようがないというべきか。

これに対してカントの黄金律には、「おのれの欲せざることを相手にするな」という、1人称から2人称へという発想があるように思われます。この原則はさらに、自分と相手だけでなく、万人に対しても当てはまるとき、それは正しい判断と言えるという考えですが。「万人」が1人称、2人称の連続に捉えられているようにも見えます。
ここでは、1人称の<私>と、3人称化された「万人」の間に、2人称の相手への慮りがあります。1人称の<私>にとって、自分がスワンプマンに入れ替わってしまうことは重大事件であることを確認しました。では2人称の相手はスワンプマンでありうるのかどうか、前回の検討を思い出してみてください。

功利主義の場合もそうですが、スワンプマンとの入れ替わりに気づきうるかどうか、という問題と、実際にスワンプマンになってしまったかどうかには大きな差があるように思います。少なくとも、2人称の相手が、スワンプマンに替ってしまっていたら、恋人や友人、家族にとっては大事件と捉えられるように思います。

作品中の祭主の判断、死に方には、2人称としての妻の存在と、その存在への態度が大きく関わっているように思います。どう考えますか?

哲学2017 授業資料 「鏡が淵」「残り紅」 スワンプマンと恋愛

哲学2017 授業資料 「鏡が淵」「残り紅」 スワンプマンと恋愛

<私>=記憶、<私>=時間意識、<私>=遺伝子、身体と考えてきた。
今日は、「社会」について考える前に、<私>と私以外の者との関係を考えたい。
私以外の者として、第一に考えたいのは、やはりもう一人の私=「影」である。また、私を他者につなぐ関係として恋愛や愛情についても考えたい。と、ただの与太話になってしまっていないか少々心配だが、まあ書いていこう。

本体と影の話。
まずはスワンプマン=沼から生まれた沼男が影として活躍するお話から。

「鏡が淵」 
文字通り、沼から生まれたスワンプマンに危うくとって替わられそうになる。主人公は、失恋によって、自らを放棄しようとしており、自分の影であるスワンプマンに自分を明け渡しそうになっている。だが、ギンコの説得を聞いてすんでのところで自分を取り戻し、自分の意思の力でスワンプマンを撃退する。

そのままスワンプマンが本人になり替わっていたとしても、ギンコがいなければ、周りは気付かなかっただろう。失恋をきっかけに、人が変わってしまう、ということはよくありそうなことだが、そのとき、周りは気付かなくとも、もしかしたら本人も気づかなくとも、本体と影が入れ替わっているということがあるかもしれない。そのとき、乗っ取られた本人以外、どっちが本体でどっちが影だか、誰が言えるだろうか。

本体が本体として、強く自分を保つために、主人公には恋愛の相手が必要だった。恋愛は相手の承認によって、強い自己肯定感をもたらす。だが、同時に自分自身を相手に預けてしまうという要素があり、それは自分自身を危うくする。失恋で肯定感をなくして、自分を見失うこともあるだろうし、恋愛の中で自分をなくしていくこともあるだろう。<私>と他者の関係は、他者が<私>を支えてくれるという面と、他者が<私>を失わせるという両面があるようだ。

<私>が私であるためには、デカルト流に考えるなら、自分自身の強い意志が必要である。デカルトは、確固たる人生を歩もうと決断し、自分が漠然と信じていたものすべてを疑うというプロジェクトに着手する。ついに自分自身についても疑うに至るが、その時、もしいま自分が自分自身の存在について疑っているならば、疑っている自分自身は少なくとも存在している、ということを確信する。それがデカルトの「コギト(われ思う)」である。強い意志があってはじめて自分自身が存在を確信することができ、自分自身の人生を生きることができるというデカルトの態度は、「近代的自我」と呼ばれる。近代的自我の倫理的、法的責任を確立したカントの自我もまた、自分自身で自分のことを承認すると同時に、相手との相互性を理解して相手も尊重できる独立した存在者である。「鏡が淵」に、そうした強い自我を見出すことができるだろうか。

ところで、近代的自我は、唯一の相手との恋愛が生涯の結婚生活に結びつく近代的恋愛(ロマンチック・ラブ)の主体でもある。社会的に、成熟した近代的自我は必然的な他者(成熟した特別な自我=結婚相手)を必要とすると考えられてきた。成熟しているのに、恋愛と結婚が必要とはなぜなのか? もしも、自分自身で自分自身を確信でき、承認できたのであれば、さらなる承認を得るための恋愛はもはや必要ないし、ましてや、一生そうした相手に依存して生きていく必要などないのではないか。これが一つ目の謎である。そういえば、デカルトも、カントも結婚などしていない。

次に、「他者」なのに、「自我にとって必然的」、とは何やら矛盾しているようにも思える。
臨床心理学で、「自我にとって特別な存在」のことを「影」と呼んだりする。自分自身のコンプレックスやトラウマ、憧れなどの投影である。「自分にとって必然的な相手」とは、つまり「自分自身の影」のことであり、「近代的恋愛」とは、「自分の影」を「他者」に投影するシステムということになるのではないか。結婚相手は運命の相手でも何でもない、ただの他者だ、と言うとロマンがないようにも思える。だが、自分にとってだけ特別な存在、すなわち「自分の影」だと相手をみなす結婚生活も、ちょっと怖いように思えるが、どうだろうか。これを二つ目の謎と考えたい。

謎を解かないままに、つづいて「残り紅」
これは、文字通り「影」の話。「壜の中の少女」のように、「本体を乗っ取った影」の話である。「影」であった女は、本人も自覚のないままに本体になり替わって本体の本来の相手だった(?)男と結婚して一生を送るが、晩年に、ギンコの話を聞いて、突然自分が「影」であることを自覚する。「影」であることを自覚した女は、自分の人生を正しくないと考える。しかし、男も、おそらく入れ替わられた本体も、男と結婚して人生を送った女を承認しており、女は男と結婚したまま一生を終える。女の没後、男は自分自身が「影」になって、入れ替わられていた女を世界に戻す。

「影」だった女は、「影」であるゆえ、自分で自分自身を肯定することができない。従って、近代的自我ではない。従って、男とも近代的恋愛結婚をしたとは思えないし、入れ替わった女の身代わりに家同士の結婚をしたと示唆されているように思われる。というわけで、男の承認があってはじめて存在でき人生を全うすることができる存在であるというのは、整合的であるように思われる。

さて、「影」だった女は、入れ替わって以来、やはり本体だった女の「影」として生きてきたことがわかる。最初は躊躇しながらも、本体だった女の立場になり替わり、家、親、友達、結婚相手、などを受け入れて人生を送ったことがわかる。その人生を、男は「結婚して一緒に人生を送れて幸せだった」と肯定したが、それはもとの女の「影」として肯定したのか、それとももはや「影」としてでなく「本体」として、その女を肯定したのか。どの<私>との関係だったのか、「影」にまったく独自の<私>がありそれを愛したというのか、曖昧であるように感じられる。

さて、どっちの女が「本体」で、どっちの女が「影」だったのか。もし、それぞれが独立した人格だとするなら、男は、どっちの女を愛しているのか。最後に、男は「本体」だった少女の「影」になるが、それはどういう含意があるのだろうか。

「影」と「本体」にプライオリティはあるのだろうか。もし、同等だと考えるなら、私たちも「影」と同じ資格の存在者ではないのだろうか。すなわち、「本体」であるからといって、自分を肯定できる理由になるだろうか。「本体」もまた、近代的自我ではなく、他者による承認が必要なのではないだろうか。

----------参考----------
「影」について
影との戦いゲド戦記〈1〉』アーシュラ・K. ル=グウィン(清水訳)、岩波(少年文庫)、1976
『ファンタジーを読む』河合隼雄、岩波(現代文庫)、1996=2013
『 Love in the Western World』Denis de Rougemont 、1940

恋愛
『恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容』谷本奈穂、青弓社、2008
社会学のすゝめ 第32回「恋愛と結婚の社会学―ロマンティック・ラブの行方―」(JMAリサーチ道場)、小林祐児、2014/06/26、http://blog.jma-net.jp/article/400355510.html
ジェンダー論:近代社会と結婚 4』椎野ゼミナール(立教大国際学部)2014.5.12
http://www.bunkyo-shiino.jp/gender/1129

近代的自我
省察デカルト(山田訳)、筑摩(学芸文庫)、1640=2006
『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一講談社(現代新書)、1996
『モダニティと自己アイディンティティ』A.ギデンズ、ハーベスト社10991-2005
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