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鑑賞&検討2015 『蟲師』 1 「緑の座」

鑑賞&検討 1
蟲師』 1 「緑の座」

物語の要約

創造主の力を持った少年シンラとその管理者としての祖母廉子の再会の物語。
この物語では、「蟲」は一般的な生命よりも原始的な半生命で、通常は人には見えないが、現象に作用することで、さまざまな「超常現象」を引き起こす存在と想定されている。レンズはあるとき蟲の宴に招かれ、十数年後に生まれる孫の持つとされた生命創造の力の管理を依頼される。しかし、その宴の最中のトラブルにより、廉子は管理者としての力を得ることもできない半身を蟲でも人でもない世界に残したまま、残りの半身は人の世界に戻り、ふつうのシンラの祖母として一生を終える。この物語の狂言回しである蟲師のギンコが少年を訪れたとき、蟲でも人でもない存在として家についていた半身を完全な蟲として蘇えらせ、シンラと再会させる。シンラは、蘇えりの儀式の中で、自らを見守り続けてきた祖母の使命と愛を感じ、自らの力を世間から隠して生きる覚悟を決める。

検討:
 この物語のなかでは、「魂」の扱いが注目される。「魂」は、人や動物だけが持つのではなく、自然の中で多くの存在者が魂を持っているのに、人はそれに気づいていない、という状況が描かれる。私たちはどうやって魂を感じ、知るのだろうか? そして、自分の気づいていない魂が存在する可能性があるのだろうか? 気づくことができるかどうかに関わらず、そう信じる立場はアニミズムと呼ばれる。あるいはそういう魂が逆に存在しないことを確認できるだろうか? もしかしたら、我々は人に対しても、相手の魂を感じることができず、ただ存在しないことを確認できないから魂があると信じているだけではないだろうか? もしかしたら、魂などそもそも存在しない、我々が勝手に人や動物などに対してラベリングしているものでしかないのかもしれない。こういう立場は唯物論などと呼ばれる。
 こうした状況で、もしそのような直接に見ることのできない魂に対しては、どういう態度をとることが望ましいのだろうか? 他者に対してどのような態度をとるべきなのか、魂を持つ他者と魂を持たない他者を区別して、異なる態度をとることが望ましいのだろうか。しかし、どうやって区別するべきなのか、どう異なる態度をとるべきなのか? ロボットや動物に対して、あるいは自然に対して、どういう態度をとるべきなのかという問題でもある。
 物語の中で、レンズの魂はトラブルによって、心を持ったまま、誰にも気づかれず影響を及ぼすことの出来ない存在とされてしまう。シンラは、それに気づかなかったが、それを知ったとき、自分の祖母としての心として自分を見守り続けてきた魂の存在を受入れる。これに対してそれは、実際に生き残っていた半身を感じていたからなのか、それとも既に死んだ祖母の心をなお感じ続けていたからだろうか?
 シンラは、ひょっとしたら、そういう心の存在をすでに感じていたのかもしれない。「遺書」さらには「言葉」というものは、それを作り出した人を離れて存在する。シンラはその言葉を大切に生きてきたし、これからも生きていく。それは、祖母の魂の存在を信じ、ともに存在するということなのだろうか。物語では、蟲となった祖母がいわば人ではないが魂の半身であるという仕方で、まさに魂の本体としてシンラに寄り添うことと、祖母の言葉を大切にするシンラの生き方が一致することによって、そのような思想を示しているように感じられる。
 だが、魂を離れた言葉は、たましいそのものとは異なっている。むしろ、言葉は生きている人のためにある、生きている人のものであり、生きている人が自由に解釈して利用することができるし、まさにそのためのものであると考える立場もある。バルトに代表される、フランス現代思想では、こういった文脈で「著者の死」「解釈の自由」が語られる。あるいは、言葉は著者や読者を超えた独自の力を持っているとする折口信夫らの「言霊論」という立場もある。

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次回 『蟲師』2 「瞼の光」

スイは目にマナコノヤミムシという蟲が入って盲目になっており、倉に閉じ込められている。だが、盲目であるがゆえに、第二の闇というべき静かな暗闇のなかで蟲の世界をみることができる。しかし蟲を見つめすぎると、目玉を喰われてしまう。ギンコが訪れ、瞼に棲む蟲を退治し、スイは世界を見ることができるようにする。光を失うことで見える世界、そして光を得ることで失う蟲の世界の美しさが余韻として残る物語である。