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【哲学2015】 日本の思想 7 身体と人格 『蟲師』「暁の蛇」

【哲学2015】 日本の思想 7 身体と人格 『蟲師』「暁の蛇」
 
前回は、『蟲師』「沖つ宮」(原作5巻、アニメ22話)などから「時の流れ」について考えた。
時間論について、「露を吸う群」についてのレポートについて、すこしコメントしておく。レポートは、要約+感想文になってしまっているものも見られた。ヒロインが「あちら側」を選ぶという物語の展開が印象深かったので、ややそれに引きずられた人も多かったかもしれない。
まず、しっかりと思想を対象化して抽出すること、次に、それについて論じることがこの授業では求められる。例えば、私からは、2つの時間の対比を抽出して論じたので、これを手がかりにするのも手である。自分なりに2つの時間はあるのか、あるとしたら、それぞれどういうものか、どういう関係にあるのか、人間にとってそれぞれどういう意味があるのか、それにどう向き合うべきか、などについて考察すると、時間について考えが深められるはずだ。特に、内山の著書から、西洋近代=時間の均質化にたいする批判的立場を紹介したので、これを検討しても良い。
「沖つ宮」は、「時間の流れ」=生とする観点として扱った「夜を吸う群」と同じく、社会とは隔絶した孤島が舞台だったことは、レポートで指摘した学生もあったように、その空間的孤立が時間的にも通常社会とは異なる異世界であることを表現し、従って時間の流れをテーマとする読みはそれなりに当を得ているのかもしれない。
だが、この作品は同時に、では、マナの「産みなおし」であるイサナとその母、澪と母子3代を中心とした物語でもある。特に、イサナとマナは同一人物なのか、そうでないのかという問題をめぐって、澪―イサナ母子の葛藤と結びつきが描かれていた。澪とイサナ母子は、自分たちの一回きりの<この>時間を否定する(蟲に食べられる)ことを望まず、「産みなおし」には否定的である。この態度は、「露を吸う群」のひたすらの<今>を求めたアコヤの選択を意味しているようにも思える。この母子に対比されるのが、澪の両親であるマナやその夫は、典型的なその島の文化を代表しており、時間を巻き戻すと理解されている「産みなおし」には肯定的である。
「産みなおし」が本人にとって肯定されるのは、時間を線上に展開して、その線上を戻ることで再び時間を取り戻せると考えるからである。ただし、その人の(内面)時間だけが巻き戻されるので、他の人たちの(社会的、内面的)時間とはズレてしまう。島の人たちは、ひたすら外面的な時間に定位して人生を考えるのだが、「消えてしまう」のがなぜ「恐ろしい」のかを、この外面時間において語ることは難しいだろう。「露を吸う群」の時間は生き生きとした<今>が続くように見えた。だからこそ、人生を生きることについて怖れを抱かないかのように。ただ、それはあまりに動きが早くて、時間を線分上に引き延ばして近代的時間として見る余裕がなかっただけかもしれない。
これに対して、イサナー澪の母子は、内面時間を蓄積的に捉えている。それが近代的時間と同じ線上に軌跡を描く時間なのか、もっと別の時間の蓄積の仕方なのか、それは分からない。ただし、ここで重視されているのは、その時間の一回性、個人個人の時間のもつ個別性である。だからこそ、彼らは人生を繰り返すのを拒絶するばかりか、イサナとマナの同一性についても拒否するのである。
イサナとマナの同一性は、一つには身体的類似性がある。これは「クローン人間は元の人間と同一か」という問いと重なる。その答えは、もちろん、一卵性双生児だから同一人物にならないように、「同じではない」ということになるわけだが、どの点で異なり、どの点で同一ではないのかと問われるのかについては、議論が必要だろう。さて、人格の同一性について、もう一つのアプローチは、記憶や意識である。二重人格や憑依のようなことを想像するとき、われわれは人格をどうやって統一的なものと考えているのだろうか。澪は、イサナがかつてのマナと似たような言葉を出したとき、イサナの個性と、いわば自分の哲学的立場について不安に苛まれ、いたたまれなくなった。
J.ロックは、『人間知性論』(中公「世界の名著」、1723=1980)第27章「同一性と差異」において、次のように言う。「人間の同一性がどこに存するかもはっきりする。すなわち、たえず変わっていく物質分子が同じ体制の身体へ継続的に命あるように合一して、同じ連続的生活を共にする点だけにある。」(pp.124-125)、「かりにもし同じ人間が時を違えて別個な、伝達できない意識を持つことができたら、疑いもなく、同じ人間が違った時に違った人格を作るだろう。意識だけがかけ離れた存在を、同じ人格に合一できるのである。」(p.125) このロックの言葉は澪の不安を和らげるだろうか。
「意識だけが」人格の同一性を保つのだろうか。ロックは上記の「人格」を基盤として、「近代的個人」を捉え、所有権、参政権といった、近代社会の政治経済の基礎理論を確立した。だが、そう考えると、記憶のあやふやなひとは人格を保ち得ないことになるのではないのか。
「暁の蛇」において、この問題を考察してみよう。「日本的」と言いうるかどうか分からないが、「人格」についての、ロックとはやや異なるアプローチを観ることができるように思われる。


要約  『蟲師』「暁の蛇」
毎晩、記憶を蟲に食べられてしまう  は、いわば現代の「痴呆症」を思わせ、共に暮らす家族を困らせる。家族は、かつて家族と暮らした記憶が、その  の人格の同一性を認めて生きていきたいと思っている。ギンコは、できるだけ記憶が失われるのを防ぐ方法を家族に教える。ある日、  は、自分の耐え難い過去を知り、それを機に記憶も大きく失われる。だが、家族はその記憶の大きく損なわれた  の記憶を問題にせずに(  として?)受け入れる。
分析
近代的個人の概念からするなら、記憶が毎晩失われるなら人格の同一性が失われてしまう。本人にとっても、家族にとっても、それは不安であるはずだ。じっさい、私たちは家族がそうなることを恐れるし、なによりも自分自身がそうなってしまうことを恐れるだろう。それが、「アルツハイマー症」や「痴呆症」などに怯える現代人と現代社会の姿である。だが、「暁の蛇」では、そうではない家族、個人、そして社会が描かれる。
人格は記憶や意識によって同一性を保っているわけでないのだろうか。例えば、家族との関係によって、むしろ人格が同一性を保っているとしたら、意思や暴力、所有の概念も近代的なものとは大いに異なってくるだろう。あるいは、人格の同一性を保つ上で、特に大切な部分(本質的意識)とそうでもない意識(偶有的、付属的意識)があるということだろうか。あるいは、社会生活ないし家族生活において、人格概念はそれほど大事というわけでもないのだろうか。ただ、「人格」概念なしに、どうやってその人をその人として尊重したり、関係を取り結んだりすればよいのか、それは難しい問いである。作品では、  をケアしている息子(とそのコンサルタントを務めるギンコ)の果たす役割がとりわけ大きく描かれ、それが、非ロック的人間関係に一定のリアリティを与えているように見える。