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日本の思想 9 <私>と主体  『蟲師』「海境より」

【哲学2015】 日本の思想 9 <私>と主体  『蟲師』「海境より」
 
蟲師』「海境より」(原作3巻、アニメ12話)
男は、数年前、婚約者を海で見失う。彼は、海境で見失った婚約者を待ち続ける。数年後、男はギンコと共に、蟲の生み出す不思議な現象の中、婚約者に出会うが、それは蟲の「うつしとった」かつての婚約者の姿に過ぎなかったが、男にはどうしてもそれが蟲とは思えないのだった。

この話は前回見た「一夜橋」と似ている。

蟲師』「一夜橋」(原作4巻、アニメ17話)
山奥に落ちると魂が吸い取られて身体だけになる(ゾンビ化する)という谷がある。その谷に婚約者が落ちた男は、魂を吸い取られた婚約者の死を認めることができない。

ひとは、身体を失ったときに死ぬのか、あるいは魂を失ったときか。それは、現代の心臓死と脳死の論点にもなる。しかし、ここでいう「魂」は、心的機能だろうか、それとも、<私>という一人称的な意識のことだろうか。例えば、心的機能がありさえすればよいと考えるなら、よくできたロボットやコンピュータには魂があることになるだろう。しかし、<私>という一人称的な意識についてはどうだろうか。ひとには、それぞれ<私>という意識があると考えられる気がするが、はたして、チューリングテスト(人と見えるように振舞うテスト)に合格したロボットとどう違うのだろうか。デカルトは「われ思うゆえにわれあり」の「私」(cogito)として、西洋の「近代的個人」を確立したとされるが、それはあくまで思考する・疑うという機能を持った人間のことなのか、それとも一人称的な<私>だったのか。『省察』の記述は、「誰かが誰かをだましているなら、そのだまされている誰かが存在する」という三人称的な論理を超えて、「だますならだますがよい! それでも、それだから、私は私なのだ!」と叫ぶ一人称的なデカルトのドラマのようにも見える。この三人称と区別された一人称の<私>を哲学的なテーマとして前面化したのは「私の言語の限界が私の世界の限界である」で独我論を論じた『論考』のウィトゲンシュタインであろう。これを、<私>の言葉で表現できない唯一性として論じ続けているのが永井である。永井の『マンガは哲学する』(岩波現代文庫、2000=2009)では、多数のマンガから<私>問題がたくみに提示されている。

<私>の問題は、例えば次のようにして提示できる。私がコピペされたとしよう。そのとき、コピペされた私は、もとの<私>と、身体的、記憶や処理能力といった心的機能がまったく同じでも、やはり別物である。<私>とは、物理的なベースを持たず、世界の中に存在しない。すべての人間に<私>があると言ってよいのか? なぜ? そしてどうしてそれが可能なのか? どうしてそれを知ることができるのか? 他者の<私>を<私>はどうして知るのだろうか? 他者に<私>は必要なのか? 心的機能だけではいけないのか? 翻って、自分自身についてはどうだろうか? そう言えば、コピペもまた「私」と主張するかもしれないが、<私>にはそれが<私>であるとは断固認められないだろう。だが、自分が<私>である根拠はなんだろうか。<私>と思っているけれど、じつは自分がコピペであるかもしれないのだ。コピペされずとも、<私>が自分でも気づかぬうちにこっそりと失われている、あるいは入れ替わっている可能性はないのか? 私には<私>が必要なのか? 永井は、こうした一連の問いを問い続ける。

「一夜橋」「海境より」の男は、魂のない婚約者の姿に出会って、どうしても婚約者を失ったということが受け入れられない。「海境より」では、その理由は、別れる直前に致命的に傷つけてしまったこと、それを悔い続けていることがある。彼は人生をやり直したいのだ。彼は、いまの<私>を捨てて、別のありえたかもしれない生へと移りたいのだ。だが、もし彼が<私>を捨てたら、それは<彼>の人生ではなくなり、別の男の人生に過ぎないだろう。それでもなお、男がそれを望んでいるとしたら、それはひょっとして婚約者の<私>から自分を見ているからなのだろうか?  「一夜橋」では、女が意味ある言葉や行為を失っても、三人称的な観点からは姿と振る舞いが継続していることにある。男は、その姿に婚約者を読み込もうとする。その行為は、われわれが眠っているひとに対して、これは眠っているだけだと思う、ひそかに<私>が消えたとか、入れ替わっているとか思わないのと、そんなに違うことだろうか? 

相手がただの三人称的な「主体」ではない。<私>と同等の存在者である。そういう確信はどこから湧いてくるのだろうか。それをきちんと説明することができるだろうか。あるいは、説明抜きで大切にすることが、倫理的に、あるいは社会的にできるだろうか。<私>と同等の存在者であるとはすなわち、他者とは決して「分かる」ことのない存在者のことではないか。「分かりあえない」他者と、どうやって意思疎通したり、共同することができるのか。どう接すればよいのか。こういった観点から「他者」の問題を取り上げるのは野矢茂樹(例えば『哲学・航海日誌』春秋社、1999、など)である。野矢は、レヴィナスが取り上げたように、「他人の痛み」について考える。他人の痛みは私には分からない。痛みは、とくに<私>に固有のものであるように思える。しかし、私たちは「痛み」という言葉を使って他人とコミュニケーションしている。言葉とはそういうものであり、言葉には<私>の<痛み>は関わらないのであり、私は<私>の観点に止まっていてはならない。野矢のポジションは、<私>にこだわる永井に批判的であり、あたかも、他者「あなた」を介して、<私>問題を乗り越えようとしているかのようである。「アスペクト把握(<私にはこう見える!>に不可欠な他者は、二人称的なあり方をするほかない」p.186「他者の不在は、そのまま自己知の喪失を、それゆえ自己の喪失を意味するだろう」p.191)はたして、野矢は永井をうまく乗り越えられたのだろうか。そして、仮に乗り越えたとして、彼は乗り越えるべきだったのだろうか。

ただ、そう考えるなら、「身体」がどうしてそんなに大事なのか、改めて考えてみる必要もあるだろう。じっさい、われわれの身体は日々変化し、長いスパンではどんどん成長、老化していく。精神状態も、能力も、記憶も、どんどん変化していく。だが、われわれはそこに同一の人格を読み込む。その根拠は、量的な継続性によるものか、あるいは<私>という本質的な意識の想定か。仮に、身体はそんなに大事ではないとしよう。『攻殻機動隊 ゴースト・イン・ザ・シェル』の「人形使い」のように、意識だけの存在が<私>として継続することはありえるのか。「人形使い」は身体を求めたが、もし身体がなければ、そもそも存在しているといえるだろうか。いや、逆に、そういう無数の<私>が存在していないと言えるだろうか。仮に、存在しているとして、それが何なのだろうか。幽霊、ゾンビの物語は、私たちにそういう疑問を突きつける。

私たちの生に、もし<私>という次元があり、私たちはそれについて考えるべきなら、永井でなくとも、こうした「問い」が爆発する。「西洋近代」は、この問いを押しつぶして成立したとするなら、日本の思想は、ふたたびこれを人類に解き放とうとしているのだろうか。