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【哲学2016】 第9・10回  『蟲師』「沖つ宮」「暁の蛇」 から記憶と自我<私>を考える

【哲学2016】 記憶と自我 『蟲師』「沖つ宮」「暁の蛇」

2015年度の授業資料:作品分析については詳しくはこちらを参照のこと。

6月2日「沖つ宮」http://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56810859.html
6月9日「暁の蛇」http://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56820514.html

ここまで、暗黒の話、音の話、夢の話、時間のリズムの話、と続いたが、どの話でも外界と内界の間のギャップのようなものがあった。内界を、自分自身の意識、すなわち<私>を、形成しているものは何だろうか? 
「記憶」が<私>そのものである、というのはどうだろうか? 私の記憶が他人と入れ替わってしまったら、それでも<私>と言えるだろうか? 逆はどうか? 記憶が失われたりしたらどうか? 記憶以外にも、<私>を形成する要素があるのだろうか? 

今回と次回で、私とはすなわち記憶のことであるという立場を検討してみよう。

先週は、記憶を書き換えるということが虐待やトラウマとの関連で話題になるという紹介をした。
つまり、記憶の書き換えを、催眠で心理的治療を行うことや、歴史や自分の物語の書き換えを行うことなどとの文脈の中で理解することができるということ(ハッキング、1998p.311など)。これは<私>という意識、アイディンティティにも関わるし、自分の人生の内実を入れ替えられるということのようにも思えるかもしれない。

5分前世界創造説(野矢、1996、pp.36-37、永井、2004、p.40)から、記憶がすべて、というアイデア、それはすなわち今の自分である、という立場を構成・検討してみよう。<私>とは、いまここを生きているこの意識である、と考えるなら、私にとって世界の歴史とは、私の記憶(知識を含む)に他ならないのではないか。

現代社会でいえば、記憶と<私>の問題は、認知症の問題と重なる。記憶が薄れる、あるいは記憶の一部がなかなか蘇らない、あるいは失われるとき、<私>という実感は揺らぐ。だが、<私>とは記憶にすぎない存在なのだろうか? それとも、<私>とはもっと、意識されない潜在的な心を含むものなのか、さらには人間関係や環境の中に広がっているものなのか、そもそも心なんてものがあるのだろうか?

参考文献:
野矢茂樹『哲学の謎』講談社(現代新書)、1996年 5分前世界創造説紹介
永井均『私・今・そして神』講談社(現代新書)、2004年 5分前世界創造説と<私>
大森荘蔵『流れとよどみ』産業図書、1981年 「立ち現われ」
イアン・ハッキング(北沢訳)『記憶を書きかえる』早川書房、1995=1998 虐待・トラウマと記憶治療

河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』講談社(+α文庫)、1991=1997 認知症を含む老いを生きること
鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』講談社(現代新書)、1996
下條信輔『サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代』、筑摩書房ちくま新書)、2008
橋爪大三郎『「心」はあるのか』筑摩書房ちくま新書)、2003


ミニレポート 2週間分合わせて(6月24日(金)まで) LiveCampusより入力

<私>=記憶なのか? 検討してみよう。
蟲師』「沖つ宮」「暁の蛇」に言及しつつ、<私>=記憶という考え方を検討せよ。(200字以内)
質問・感想もあれば(100字以内)

レポート作成上のアドヴァイス
*作品が背景としている社会の思想(当時の社会ではAと考えられていた)/作中人物の思想(作中のbはBのような思想を持っている)/作品の思想(作品としてはCのような思想を主張している)/自分自身の思想を区別すること(自分としては作品の思想についてDと考える)。
作中人物は、作品の舞台となった当時の社会の思想Aに対して、たとえば、ギンコやその相手は何らかの思いBを持って物語の中で行動するだろう。これに対して、作品は、ストーリーや描き方などの道具立てを利用して、是非や共感などの評価を下すC。これは、多くの場合、大まかに言って作者の思想と言えるだろう。さらに、その作品の思想Cを検討して自分自身のポジションを提示するD。大まかにいって、こんな構図が考えられる。だから、A/B/C/Dの区別は大切。