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『危機と人間』、『アーレント』と『森の海』 1

『情報学研究』という静大情報学部で発行する雑誌の中で、「誌上シンポジウム 危機と人間」という企画に、「危機の時代とリアリティに基づく言葉」というエッセーを寄稿した。その後、このテーマに関連して、映画『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)と『森の中の海』(宮本輝光文社文庫)で、改めて感じたことを書きたい。

エッセーでは、2011年の東日本大震災を意識しつつ、ギデンズやベックの「危険社会」論、ソルニットの「災害ユートピア」、アーレントの「母語」、そしてウィトゲンシュタインの言語論を順に触れつつ、危機とリアリティの問題に私なりの方向性を示そうとした。エッセーで私が言いたかったことは、本質的にはシンプルで、「危機は私たちを見せ掛けの「現実」からリアリティへと押し戻す。復興はそのリアリティを大切にするところからはじめなければならない」というものだ(もちろん、このメッセージのニュアンスこそが問題なのだが)。

先日、久しぶりに会った妹に、お兄ちゃんは「べき」とか「なければならない」が多すぎる、と指摘された。確かにそうかもしれない。だが、どうしても怒りや悔しさ、祈りのような気持ちと共に「なければならない」と言いたくなることがある。それはやはり私の弱さかもしれないと思うが、復興に関してはとくにそうなってしまう。震災の復旧・復興について、仲間と参加した災害情報支援活動の報告・検討の本『「思い出」をつなぐネットワーク』(柴田ほか、昭和堂、2014年)で、自分の考えを書いた。それもまた、相当に複雑な気持ち無しには書けなかった。エッセーでの「リアリティへ」の考えは、その中で得た考えを何人かの思想家の筆を借りて一般化しようとしたものだ。

危機は、そして復興は、あまりにもリアリティのないところで考えられられすぎていないだろうか、という感情がある。それを、自分は災害ボランティアで出動したが、してないのに震災や復興に対して何が言えるのか、という言い方にしたくはない。そんなふうに参加を特権化する言説はおかしいと思う。だからと言って、リアリティを抜きに外部的な合理性や都合で危機や復興を考え、マネジメントするのはおかしい。また、リアリティがあるからといって、何でも正当化されることもない。リアリティとは何なのか。リアリティはどう扱われるべきなのだろうか。対人関係において。社会において。自分との関係において。

私の中に生じているこの問題に簡単に解を出すことはできない。論点だって、参加だけでなく、ケアの問題、専門家の問題、そして原理的な倫理問題、多くの方面に繋がっている。だが、この問題をいったん言葉と経験に着目して掘り下げ、それを社会参加につなげることが出来たことが、今回の本とエッセーではある程度できたかな。

つづく