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デレク・ジャーマンの「ブルー」(Derek Jarman's "Blue")

Derek Jarman's "Blue"(1993,UK) detaches us from world. The world beyond the screen is full of active diversity, and here we remain just in blue. In blue we feel the world as reality, as life full of confortables and unconfortables, and here we feel ourselves in deep lonliness, acceptance, and love.

デレク・ジャーマンの「ブルー」という作品は、奇抜なものが多い彼の作品の中でも、特に奇抜な作品であるというべきだろう。方法論としては、「映画」の通常の概念を突き破るもののように思えるかもしれない。通常映画作品の世界は、スクリーン上に描かれるのだが、この作品では世界はスクリーンの向こう側に示されるだけである。実際、世界で何が起こっているのかは、スクリーンのこちら側からではよく分からない。記憶の断片だけが残っていて、もやは世界は終了しているのかもしれないという気もしてくる。この手法は、例えばカメラが無くても映画が作れるというわけだから、予算はほとんど必要なさそうであり、派手なシーンをスクリーン上に示すために莫大な予算をかけて張りぼてを作ったり、クルマを爆発させたり、エキストラを集めたりする必要がない。ジャーマンらしい映画づくりである。

世界がスクリーンの向こう側に移動することで、私たちは映画館に取り残される。スクリーンは世界と私たちの間に距離を創り出す装置として機能する。スクリーンの向こう側に遠ざかった世界は、断片化していったい何が起こっているのか正確に理解することが難しくなるが、同時にスクリーン上に世界が表示されているときには意識されにくい要素が示される。世界は、多様である。世界は、活動的である。時にすばらしく快適で、時に不快だ。一方、そうした世界から「ブルー」を上映する映画館の中に取り残された観客は、世界と切り離されていることを深く寂しく、ときおりの狂おしい不安、同時にあきらめと安心、そして世界への愛のようなものを感じるだろう。

「ブルー」の延々とした語り、そして物音は、何か深夜の長電話を思わせる。有線電話のイメージで恐縮だが、ラインの向こう側に自我が溶け出してしまっているような感覚。ただし、スクリーンのブルーは、自我が溶け出してあちら側の世界に融合しようとするのを妨げるかのように、そこに存在する。ガラス窓のように、世界と私たちを隔てているのだが、透明な壁ではなく、そのブルーは世界をそういうものとして存在させている。スクリーンは世界で何が起こっているかについては何も語らないが、ただ我々と世界の関係をブルーで暗示するかのようにその表情を変えるかのうように思われるのは興味深い。

この作品においてスクリーンの意味は何なのか、それはこの奇妙な作品解釈の重要なとっかかりであろう。スクリーンは、身体なのかもしれないな、と、ふと思った。身体は、受肉した魂を世界から遠ざけるとともに、結びつける。世界の暖かさ、そして冷たさを、身体を通して知る。身体によって世界から隔てられているものの、その身体に意識を集中することで、世界を感じ、世界を志向することができる。


PFA Berkeleyで7月から楽しんできたデレク・ジャーマンの作品シリーズも今回の「ブルー」でおしまい。訳の分からない作品もあり、楽しかった。映画って、果たして訳の分かる作品の方が面白いのだろうか、それとも、訳の分からない作品の方が面白いのだろうか。「水戸黄門」や伝統的な「能」や「歌舞伎」のように、ストーリーは分かっていてもその解釈を楽しむケースがある。だが、それも結局、解釈があまりにありふれたものだとつまらないのではないだろうか。だとすると、私の考えでは、人は、作品観賞の際には、何か自分にはないもの、自分には理解できないものを求めているのではないかと思う。そして、それにタッチするための拠点として、ありふれたストーリーや、おなじみの構図を利用するのではないだろうか。もっともこれは、人にも、時と場合にも拠るだろうが。

デレク・ジャーマンの作品は、奇抜さが過剰でときに無秩序にさえ感じる。ただ、表現が奇抜なだけに保守的な題材を選んでバランスをとっている面もあるようだ。だとすると、私にとっても、もしもうすこし題材について予備知識を仕入れておけば、奇抜さに見えた面が、より意味の豊饒へと寄与するのかもしれない。

「ブルー」は、確かに表現は奇抜だがテーマはオーソドックスなものだったと感じた。世界との関係を示すために、あえて世界を描かないというのは、哲学者ウィトゲンシュタインが採用したアイデアの一つでもある。その意味では、私にも理解できる戦略である。他方、ジャーマンの「ウィトゲンシュタイン」はウィトゲンシュタインの生涯を伝記的に描きつつ、ウィトゲンシュタインの取り組んだ世界との関係というテーマを浮き上がらせようとしたものだった。私にとっては、テーマに親しみがあると、奇抜さをむしろ楽しめるという実例である。これは、アプローチとしては平凡なものである。

「ブルー」は、観客をウィトゲンシュタインのポジションに置く。「ブルー」が終了した時のPFAの館内の空気は、まさに"dead air"、観客は深い沈黙に身じろぎもできず凍てついた空気の中でエンドクレジットが巻き上げられていった。拍手の出ることが多いPFAにしては珍しい終わり方だ。そこまで深刻にならなくても、と私は思った。