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【哲学2015】 日本の思想 3 現代

 
本日は、西洋哲学の基本的概念のつづき、現代編である。ひきつづき、伊藤邦武『物語 哲学の歴史 ――自分と世界を考えるために』(中公新書)を参考にする。現代は、「認識と意志に代表される内面を持つ人間存在(近代的個人)」を中心に世界を考える思想が、さまざまな理由から疑われるようになった時代である。そこでは、主観としての<私>が疑われると共に、環境としての自然が問い直され、さらに、これを人間にとっての第二の自然・環境というべき技術や社会、そしてこれらとの相互作用としての行為、実践、その媒介項としての言語、文化、身体などに焦点が当てられるようになる。近代が求めた「人間らしい生き方」もまた、おのずと近代とは異なるアプローチとなるだろう。

「社会」 近代は、人間が生きるための共同体が高度に組織化され、人間存在を深く規定するようになった。社会は、政治、経済、技術、文化、教育などのサービスと強制を提供し、現代的な個人を生かすと共に、管理する。近代的な意味での純粋な「個人」の、「自由」な「認識」と「意志」は、もはや社会的な実践の中では現実的とは言えない。

「自然・環境」 自然は人間世界とは別個の観察の対象ではない。「技術」によって自然をより深く・広く加工し征服するようになった人間の目からみた自然は「環境」としてとらえられる。自然が社会的な管理の対象となるとともに、自然と人工環境の区別が曖昧になる。人間存在は、古代・中世には自然と本性を共有するものとしてその連続性が肯定的・否定的に捉えられたが、近代は人間を精神的な存在として物理的存在としての自然との断絶性が強調された。現代は、都市や建築などの人工環境、医療や生技術、自然環境問題などがこうした人間-自然関係の問い直しを迫っている。

「文化・多様性」 その社会の人々に共有され・受け継がれている行動様式や生活様式を文化という。人間である以上共通すると考えられてきた普遍的理性に対して、多様であり、唯一絶対の認識、判断、行動などを想定できない。こうした文化を尊重する以上は、普遍性を前提とした近代的な哲学や思想は、「真理」「自由」「正義」「幸福」といった価値について批判的に検討され、現代的な新しい世界像、人間像が求められている。ただ、こうした多様性は必ずしも近代ヨーロッパ的価値を全否定するものではないので、慎重な検討が必要であろう。上記の「環境」もまた、「文化」の入り混じったものと考えられる。

「私」 近代的な哲学においては、普遍的な「主観」を想定していたが、現代はこれが疑われる。まず、「主観」とは本来の「見ているもの」ではなく、いわばモデルのようなものであり、本当に見ているものは「私」というしかない個別性を持っている。この個別性は、言語であれこれと表現でき一般に理解されるようならそれは本当には個別的ではないから、本当の<私>は言語では表現できない、すなわち「見られる」ことのないただ「見る」だけの存在のはずである。

「時間・歴史」 近代は絶対的な物理時間の上に、一方向的な歴史的発展、人間の成長を肯定的に描いてきた。そこで見落とされがちだったのは、歴史の多様性、過去や記憶の価値、社会の複層性、文化や人間の個別性、失敗や破綻、老いや死の問題などである。近代の西洋中心主義が「オリエンタリズム」として批判されると共に、こうした歴史観、時間論もまた、見直されている。

「他者」 近代は、人間と世界を、いわば三人称の集合体として平面状に並べてモデル化して、客観的に理解して管理しようとしたとするなら、そこで見落とされていたのは、一人称である<私>であると共に、その<私>が「あなた」と呼びかける、いわば「分かるけど分からない」とでも言うべき<他者>の他者性である。近代社会はその差異を無視して、医療、教育、経済、政治などのシステムを構築してきたが、それらが他者への「承認」「ケア」などの概念と共に全面的に問い直されている。個人の間だけでなく、文化間、世代間、あるいは動物や自然環境との間の他者性と関係性の再編が必要とされている。

「権力」 意思は他者に自分の意思を強制しようとする「権力」として作用する。他者性とケアを考慮するなら「権力」のあり方も問い直される。権力には、無理に押しやるなどの物理的強制、心理的に脅かす心理的強制のほか、規律訓練型、監視型、環境管理型などのタイプが知られている。社会が高度化、システム化、情報化すにつれ、権力形態も高度化し、権力であることが意識化されにくくなっている。自分では「自由」な「判断」「行動」のつもりが、何も知らないで餌を食べる家畜のように、権力にたくみに誘導されていることが考えられる。

「現実性」 メディアや情報技術の発達した現代社会では、何が現実で何がそうでないのかが分かりにくい。その分かりにくい「バーチャル」な領域に、判断、意思、欲望、幸福など、人間存在を規定する多くの要素が基礎を置いている。「現実性」をどう評価するのか、どう認知するのか、どう管理するのかなどが現代人の社会実践において、現代の社会づくりにおいて問われている。

「身体」 人間の身体は人間にとって現実である。なぜなら身体によって人間は世界に位置づけられ、身体の停止・崩壊が人間としての存在の停止である「死」であるように思われるから。身体は、人間存在が近代の想定した純粋な精神ではない「不自由」「物質性」をいみするとともに、単なる物体として扱えないことで人間存在の「特別さ」を意味する。認知科学では、世界と交流する身体のあることが人工知能にはない認知を人間に可能にしているともされる。

「言語・情報」 言語は知性の媒体であり、社会で共有される。言語は、知識を個人の観念の世界から、社会的に可視化したことで、人間の普遍性を疑うこと、知識の共有や社会的マネジメント、ネットワーク的なあり方へと道を開いた。また、コンピュータとネットの発達によって、知性から人間存在の個別性や身体性を切り離す試みもある。一方で、哲学や倫理学では、解釈の問題、沈黙の意味、言葉の身体性といった面への注目がある。