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日本の思想 13 日本的共同体と自然  『蟲師』「草を踏む音」より

【哲学2015】 日本の思想 13 日本的共同体と自然  『蟲師』「草を踏む音」より
 
前回は『蟲師』「錆の鳴く声」(原作3巻、アニメ23話)から、日本的共同体における「異常」性の排除と受容の文化を考えた。一般に、日本社会は比較的均一であり、しかも「出る杭は打たれる」と言われるように、均一性を保とうとする傾向も強いと言われる。もっとも、「日本文化は…」という安易な決め付けには気をつけなければならない。宮地尚子(「文化と生命倫理」『生命倫理学を学ぶ人のために』加藤・加茂編、世界思想社)は、「生命倫理」の分野で文化相対主義を論じ、そういった「日本文化」といった決め付けは、他文化の多様性ばかりか、日本文化の多様性にも目を閉ざしてステレオタイプ化してしまうこと、新しい知識や可能性に目を閉ざすことになるばかりか、逆に、「アメリカは進んでいるのに日本は遅れている」というような無批判な欧米追従型の議論になりがちであることを指摘している(p.297)。「日本の思想」を考えるわれわれの議論も、同じ注意が必要だろう。

それはそうと、前回維新後の「日本的共同体」評価と批判の流れを紹介したが、「日本らしさ」を求める動きは「国学」としてすでに江戸時代からあって、それが尊王攘夷運動につながり、さらには引っくり返るように明治維新天皇を中心にした近代化に進むという歴史がある。『折口信夫―いきどほる心』(講談社、2008)木村純二の議論を思い出しながらまとめてみよう。西洋的道徳の典型は「義務論」と呼ばれるカントの道徳論、ベンサムやミルの「功利主義」であるとされるが、これとの関係で見てみよう。義務論も功利主義も、理性によって個人や社会の欲望や暴力をコントロールしようとするところにその規範性・道徳性の基本がある。この基本性格は、江戸時代の官学であった、朱子学においても同様だそうだ。コレに対して、本居宣長は江戸自体の国学者で日本的価値観として「もののあはれ」を再評価・再発見したとされ、日本文化のルネサンス(文芸復興)の功労者である。「もののあはれ」は、悲しみにも同情にも、諦めにも似た感情であり、宣長独特の色合いが込められた概念だが、ここでは西田幾多郎の「純粋経験」に近い形で、「理性による作為に先立つ素直な心持ち」とでもしておこう。宣長は、「もののあはれ」を道徳からは切り離した文芸・芸術的な価値として評価した。社会作りの規範については理性で対応、趣味や人生の味わいについては日本古来の価値観を大切にという訳である。これに対して、同じく江戸時代の平田篤胤は、日本古来の価値観としての神道にも理性的な道徳的な思想を読み取った。この考えは、明治維新後に、社会的規範であると同時に個人の心情を規定するものとしての明治期の神道に発展する(ただし、平田神道は、宗教でありかつ宗教でないという奇妙な性格の戦前の国家神道からは異端として排除されることになる)。折口はこれに反対して、神道記紀スサノオなどに見られる「いきどほる心」(作為のない心情)を評価するが、それは宣長のように道徳と切り離してではなく、まさに道徳として評価しようとしたそうである。

国学神道の思想といっても一枚岩ではいかないものである。ただ、この「理性的な作為に先立つ」判断を評価する立場は、「自然」に対する思想にも反映される。「西洋的な自然観」は、しばしばキリスト教を起原として「人間は神の代理人として自然を支配・管理するべき存在である」(ex.リン・ホワイト『機械と神』)の人間中心主義とされる。カントの道徳論も理性を持った人間だけが目的であり、自然はその手段である。そして人間(自他)を必ず目的として扱うことを忘れず、手段としてのみ扱うことがないようにというのがカント道徳論の肝である。こうした人間中心主義・ヒューマニズムを、近代の民主主義と科学、産業技術主義の基本思想として評価するのは定番である。日本の自然観を、こうした人間中心主義に対立させることがある。すなわち、日本人にとって、自然は道具や手段ではない。むしろ人間生活とは切り離せないという意味で、目的の一部をなすものなのだと。自然と連続的な日本庭園や日本家屋、できるだけ素材を生かした日本料理や季節の変化に応じた生活文化などがしばしば例として挙げられる。「自然」は、社会をとりまく「環境」だけでなく、いわば内部にある「身体」も含む。生命倫理の領域でも、日本人の身体意識が問題になる所以である。私としては問題になっている自然観、環境観、身体観が「日本独自」だと言うつもりはなく、また日本において現在でも支配的と言えるかどうかについてもやや懐疑的である。だが、自然をどう見るかは、まさに、生活文化としてだけでなく、道徳や社会づくり、科学技術の評価や利用も視野に入れた思想として問題にしたいものである。

蟲師』「草を踏む音」(原作4巻、アニメ26話)
ある山の所有者の跡取りである沢(たく)は、山で蟲師の集団の少年イサザと知り合う。蟲などに関する知識や社会の情報を扱い、定住しないで山に間借りするかのように滞在している蟲師たちに対して、沢は当初は否定的・排除的な感情を持つが、しだいに慣れてきて、受け入れるようになる。ある日、蟲師たちは山の異変を告げて去っていくが、沢たち一家はそこに残ってやってきた災害を受け止め、耐えてその土地で生活していく。そんな沢たちの生活を旅をつづけるイサザはずっと気にかけており、それを沢はいつかギンコから伝え知って受け止める。

土地が単なる所有物であり、手段に過ぎないのなら、沢は土地を売ったり放棄したりしていただろう。また、イサザたち蟲師の勝手な間借りを認めたりしないだろう。だが、伝統的に、山はそういった対象とはされてこなかった。例えば、内田樹は、移り住んだ田舎の村に伝わる、経済的に困窮したとき誰でも山に緊急避難して、必要なものを山から勝手に取って生き延びてよいという<山上がり>という風習を紹介している(『「里」という思想』新潮、pp.36-38)。こういった山との関係性は、近年では「コモンズ論」として議論されている(ex.古典的議論としては、『水と人の環境史』鳥越・嘉田編、御茶の水書房1984)。確かに、琵琶湖や浜松近辺なら、浜名湖、あるいは佐鳴湖天竜川などは、地元の人にとっては、近代的な所有の概念、手段として利用するというだけの概念では、捉えきれない存在と言ってよいだろう。安易に一般化はできないが、いかにも「貯水池」という機能至上主義的に管理されているアメリカの(一部の)湖とは、社会への埋め込まれ方が異なるのは確かだろう。

沢たちの土地や自然との向き合い方がどの程度「日本的」かを考えることはあまり重要ではない気がするが、日本にもしばしば見られる(見られた)だろうこうした態度に含まれる思想を抽出して評価することには意義があると思われる。私は、作品中に井がかれている、沢の幼少からの、親やコミュニティと共に土地と結びついた豊かな経験が、こうした思想の評価を可能にする鍵だと言う気がする。土地から離れてしまう、あるいは売ってしまうことは、こうした経験に対して、あるいは「主(ぬし)」として自然経験の中で際立たされる存在との関係性に対して、それを手放してしまう、あるいは裏切ってしまうということになる。作品では、こうした感覚が沢たちをその土地に引きとめており、旅の蟲師たちもまたそれをリスペクトしサポートしている関係が描かれているように思う。