blog2735

Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

情報社会思想2015 第9-10回 自己と物語、記号

情報社会思想2015

第9回 自己と物語 『精神・自我・社会』(ミード)、『モダニティと自己アイディンティティ』(ギデンズ)、『自己と「語り」の社会学』(片桐)
第10回 言語ゲーム 『哲学探究』(ウィトゲンシュタイン)、『シミュレーションとシミュラークル』(ボードリアール)、『記号論I・II』(エーコ

前回は、「自己と物語」のテーマで、自己が社会から監視や管理によって、あるいは意味的に作られるだけでなく、自分を社会に再度埋め込むことで自己と社会を再帰的に再構成するというギデンズの社会論を紹介・確認した。

今回は、情報社会においては、コンピュータによって処理される記号、コンピュータを媒介して交換される記号が圧倒的に増加することで、自己や世界が記号そのものに替わってしまう面があるという指摘を確認する。

例えば、個人とは身体を持ち、痛みや喜びを感じる生の主体であるが、マイナンバー制をはじめとする情報技術による個人管理、フェースブックをはじめとするネットコミュニケーションでは、かなりの程度、身体的を持ったリアルな実体としての個人を意識せずに、そういう側面から切り離して個人を管理したり評価したりすることができる。
情報社会の進展とともに、こうした側面が強くなってきているのは確かであろう。われわれは、身体としてよりも、精神としてよりも、本来をそれを表現しているはずの記号のレベルで、記号として扱われてしまうことが多くなっていると感じないだろうか。また、自分自身でも、自分を記号として見てしまい、それを内面化しすぎて自分のもつ身体性や精神性を見失ってしまうこともあるかもしれない。

一方、われわれが生きる世界についても、記号的側面は増大している。お金や株式はすっかり電子化されて、コンピュータ上の数字だけが所有を示している状態だし、ネットで買い物する場合は、商品はその情報や画像がネット上に並べて比較して購入の判断をしている。ネット経由で物理的存在である「モノ」を購入する場合も多いが、データを購入することもますます増えているのではないだろうか。
商品は、例えば自動車を購入する場合、「モノ」とそれの実現する「機能」するイメージだが、自動車の価格は、単に実現している機能や素材のコストだけでなく、記号の作り出すブランドや流行を強く反映することになる。機能が一定の水準を満たしている場合、むしろわれわれがお金を出している主たる要素は、デザインや流行による満足であると分析されることも多いだろう。

まだ説明は途中ですが、とりあえず、手がかりとしてアップしておきます。