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【哲学2017】第六回 「技術と存在」について (『蟲師』「緑の座」より)

【哲学2017】第六回 「技術と存在」について (『蟲師』「緑の座」より)

先週は、技術との向き合い方、技術を使う人間などの観点から、「風巻立つ」を視聴しました。また、見る人の意識によって、現象が自然現象に見えたり、人の行為に見えたりすることも確認しました。今日も、存在者を存在させるということについて、意識とのかかわり、技術との関わりについて考えよう。「緑の座」では、存在者を生み出す少年、その少年も気づかなかった大切な存在が描かれる。少年を通じて、存在とのかかわりかたを考えましょう。

『緑の座』、生命を生み出すという意味ではバイオテクノロジーを想起させる面があり、幽霊や幻想のような不可解な存在との対面という意味では村上春樹の小説を思わせる面もありますね。我々としては、今回、これらのテーマを「存在とのかかわり方」という仕方で受け取り、「生き方」や「責任」という倫理的次元に

2015年、2016年にも、すこし文脈は異なるがこの作品は扱ったので、詳しい考察はこちらを見てもらいたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56760708.html
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57275964.html

今日は、「解釈学」の考え方を踏まえて考えてみよう。解釈学は、われわれの生活している意味のある世界に対する意味付けを問題にする。この授業の議論の文脈では、存在者の存在を問題にする、と言ってもいいだろう。
解釈学は、世界に意味を与えているのは、私たちの「生」だと考える(ディルタイ)。そして、その意味の与え方を問題にする。たとえば、私の世界に対する関心や配慮が世界に意味を与えている(ハイデガー)。通常の言語的な意味に満ちた世界を詩的言語・芸術的活動を通じて再解釈する(アーペル、リクール)。歴史や伝統が私たちの世界に意味を与えている(ガダマー)。
そして、解釈学は、ただ世界がそれでよいというのではなく、そうした世界の意味付けの自由と制約について考える。もしかしたら、私たちの世界はもっと別でもあり得たのではないか。何か、あるいは誰かに不当に制約されてはいないか、あるいはこういう世界に生きていることをもっと感謝して大切にすべきではないのか。その問いは、存在、そして世界の意味に対する責任を問うことになっているように思われる。

蟲師』の「存在」を考えさせる作品から、次の問いを考えてみよう。
まず、
1:「存在」に対する責任と「存在者」に対する責任の違い。
について考えてみよう。次に、
2:「存在」と言っても、「そう見る」こと、「そうする」こと、「つくる」ことは、それぞれ異なる意味作用で、異なる自由と制約があり、異なる責任が生じるのではないか。
と考えてみたい。
『緑の座』の少年、祖母、ギンコの態度は、どういう思想を表現しているのだろうか。また、彼らとは対極にある思想、彼らとは異なる存在への態度はどんなものだろうか。

来週も「存在」の話を進めたいと思います。存在者を存在させるという意味での技術と行為の話、存在と存在者に対する態度の話、と話を進めてきたが、最後に、存在を存在者にする主体と存在の関係を考えたいと考えています。

文献:本の「選び方」はこれまでも説明してきたけど、重要。授業で何度も取り上げる「読み方」と共に、レポートを書く際にも要求されるので、しっかりよろしく。

【存在への態度】『実存主義』松浪信三郎、岩波新書、1962:存在論の倫理的側面
【存在への態度】『現代の解釈学』塚本正明、世界思想社、1995:解釈学
【非存在者への態度】『レキシントンの幽霊』、村上春樹、文集文庫、1999:短編集
【存在者を生む】『人間の終わり』F.フクヤマダイヤモンド社、2002=2002:バイオ
【言葉の話】『日本の古代語を探る』西郷信綱集英社新書、2005:言葉と存在のつながり

このあと、授業としては話題のつながりに沿って、<私>→記憶→時間と進めていくつもりをしています。