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【哲学2017】第七回 「<私>と存在」 (『蟲師』「眇の魚」より)

【哲学2017】第七回 「<私>と存在」 (『蟲師』「眇の魚」より)

「存在」と「存在者」の区別を下敷きにして、認識による現象的世界あるいは観念論(『瞼の光』)、技術・行為による世界への関与・あるいは技術哲学(『風巻立つ』『緑の座』)、認識・行為の主体の責任・あるいは実存主義(『風巻立つ』『緑の座』)などについて考えてきた。今回は、存在と存在者をめぐる論点の最後として、『眇の魚』から認識と行動の主体である<私>自身についての向き合い方を考えよう。

まず、<私>についての認識が、存在に対する態度を考える上で重要であるというハイデガーの洞察を確認しよう。ハイデガーは、すべての存在者を存在者にしている存在の働きとは、それぞれの意識主体が世界に対して向ける態度によって決まってくると考えた。その主体をハイデガーは、すべての存在者を存在者にしている特別な存在として「現存在」と呼んだが、われわれは単に<私>と呼ぼう。<私>が世界に対して、どのような態度を向けるかが、世界の意味を決定する。勉強しようとする意識主体<私>にとっては、教室や机やいすとして意味をもって現れてくる存在者たちも、そうでない態度で生きることを選んだ意識主体によってはもっと別の存在者、たとえばバリケードや武器として現れてくるのかもしれない。すると、<私>こそが私の世界に対してもっとも重い責任のある主体ということになる。

それはそうと、ハイデガーは、私が<私>から逃避して、世間的なルールや習慣、社会や家族・友人などからのプレッシャー、次々に生じてくる欲望や恐れなどに身を任せて生きていくような態度は、世界と自分の人生に対して責任ある生き方とは言えないと言う。あくまで<私>の世界においてだが、現存在は、神にも等しい責任者なのだが、その責任を放棄して、他人任せ、あるいは動物のように欲望任せにしているのと同じだと、ハイデガーは非難する。こうした着眼が実存主義の肝だ。

<私>を引き受けることで、自分の人生と社会に対して、自由と責任を引き受けるというのは、人間は最高の責任主体としての神のしもべであると考えた西洋中世における態度からの決別である。これはデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」によって、発見され、提唱された<私>=「コギト」の生き方である。それぞれの人間が社会に対して責任を持って自由に参加する民主主義、自己責任で自由に競争する市場経済、自分たちの理性でお互いに対するルールを作り、お互いに理性的に守る近代的司法制度。ここで問われるのは、<私>がどのような存在者であるかの自覚である。
まず、<私>は責任ある、自由な、理性的存在者であると認識する。次いで、<私>が何を望んでいる存在者か、誰とどのような関係を持つ存在者か、社会において何をなすべき存在者か、何をなしてしまった存在者なのか、そういった認識が、<私>と近代社会、そして<私>の世界を支えるという発想である。おそらく、現代の私たちにとっても違和感のない考え方だろう。

他方、<私>は存在しない、従って認識することはできない、という考え方がある。ウィトゲンシュタインは、私たちの認識が言語(的なしくみ)によると考え、言語は経験できるものに対して順次名づけ、それを組み合わせて複雑な事態を表現するものとすると、<私>は普通の存在者たちと違って経験する主体であり経験される存在者たちではないから、認識されないと考えたのだ。ウィトゲンシュタインにとっては<私>は「語りえないもの」、「意識することのできないもの」「存在しないもの」である。だが、ウィトゲンシュタインがこう言うとき、彼もまた<私>が世界に対して特別な関係をもっていて、それに対する態度が大切なことを認めている。<私>の認識について、ハイデガーが世間に流されることを非難したように、ウィトゲンシュタインは言葉で軽々しく語ること理解したような気分になることを非難しているのである。

それにしても、<私>に対して私はどのような態度で生きることが、自分に対して、世界に対して、社会に対して責任ある「生」なのだろうか。

これまで『蟲師』のギンコが「蟲師」として活躍する物語を何作か見てきた。ここで焦点をすこし変えて、これまでの物語も含めて、ギンコ自身がどう生きていたのか、ギンコの世界への責任のとり方について考察してみよう。まず、ギンコは「蟲師」としての「生」を引き受けているのか、あるいは引き受け切れていないのか、いったいどのような態度で世界に向き合うことで、どのような世界を経験し、見ているのか。他のひとの人生とはどう違い、またギンコにも他の人生の可能性があったのかを考えてみよう。ついで、そうしたギンコの生き方が、ギンコ自身の<私>とのどのような向き合い方から生じているのかを検討してほしい。ハイデガーウィトゲンシュタインの考察、哲学的な言葉を使うと、ギンコの「生」の形がより読み解きやすくはなるだろうか。

さて、「存在」に注目しながら何作か見てきたので、このあたりで、小レポートで「存在」と責任について、自分の考えをまとめてみましょう。ハイデガーを中心に紹介した「存在」についての態度と責任についての考察に対して、どう考えますか? ハイデガーに賛成したい場合は、どのような意味で、どうして賛成するのか、反対あるいは修正したい場合は、どのような意味でどうして反対したいのか、どのように修正したいのか、を論じなさい。その際、まず物語の要約、物語の思想を読み解き、それを手掛かりにして自分の思想を表現してみてください。

1:『瞼の光』『風巻立つ』『緑の座』『眇の魚』のいずれかを選んで、それを簡単に要約して思想を抽出してください。

2:その上で、ハイデガー存在論に対して、『蟲師』の解釈や自分の経験、共感する考え方などを手掛かりに、自分の思想を説明しなさい。存在と存在者を区別する必要はあるのか、それはなぜか、そして存在に対してどのような態度を取るべきか、それはなぜか、という問いについて、自分なりの立場がを簡単に表明・説明できるように頑張ってみてください。参考文献にあたることが望ましい。

文献:本の「選び方」はこれまでも説明してきたけど、重要。授業で何度も取り上げる「読み方」と共に、レポートを書く際にも要求されるので、しっかりよろしく。
【<私>】『論理哲学論考ウィトゲンシュタイン光文社古典新訳文庫、1922=2014
【<私>】『ウィトゲンシュタイン入門』永井均ちくま新書、1995
【<私>】『『論理哲学論考』を読む』野矢茂樹哲学書房、2002
【<私>】『ウィトゲンシュタインの「はしご」』吉田寛、ナカニシヤ出版、2009
【存在】『ハイデガー=存在神秘の哲学』古東哲明、講談社現代新書、2002
【存在】『ハイデガー哲学入門』仲正昌樹講談社現代新書、2015
【存在】『ハイデガーの思想』木田元岩波新書、1993

次回からは、<私>をめぐる問題圏へと話を進めましょう。私の同一性、記憶、他者との区別、他我問題、身体などなど。