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【哲学2017】第八回 「<私>と記憶」 (『蟲師』「暁の蛇」より)

【哲学2017】第八回 「<私>と記憶」 (『蟲師』「暁の蛇」より)

第1回 物語から考える「花惑い」
第2回-3回 存在論と観念論「瞼の光」「草を踏む音」
閑話休題 物語から思想を読み取る「博士」
第4回-第7回 存在との向き合い方「風巻立つ」「緑の座」「眇の魚」
第5回-  <私>とは何か

今日から、3回ほどで「<私>とは何か?」 というテーマを考えたいと思います。
私とは記憶なのか?「暁の蛇」 身体なのか?「沖つ宮」 私の同一性「海境より」

2015年度 授業資料 「暁の蛇」http://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56820514.html
2016年度 授業資料 記憶と自我 『蟲師』「沖つ宮」「暁の蛇」
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57338419.html

存在と向き合う責任を考えるという問題から、自分自身の存在と向き合い、自分自身を引き受けるという思想まで紹介、検討した。その引き受けるべき自分自身=<私>とは何なのか。<私>は存在する、という考え方に対して、<私>は存在しない、という考え方を紹介した。

<私>が同一の存在者であると感じられるひとつの根拠は「記憶」だろう。つまり、<私>とは、かつて云々の経験をしてきた存在者である、という意識が、自分を自分自身として意識し、引き受け、責任を感じる根拠になっているのではないだろう。もし記憶が混乱してしまったら、はたして自分が自分であるかどうか怪しくなるだろう。

もしその記憶を書き換えられたら、どうだろうか? <私>が私であるという実感がなくなり、アイディンティティや生きていく上での一貫性や責任が危機に陥るだろう。ハッキングは、催眠で心理的治療を行うことや、歴史や自分の物語の書き換えを行うことなどとの文脈の中で記憶の書き換えを論じている(ハッキング、1998p.311など)。

<私>=記憶のこと?
5分前世界創造説(野矢、1996、pp.36-37、永井、2004、p.40)から、記憶がすべて、というアイデア、それはすなわち今の自分である、という立場を構成・検討してみよう。<私>とは、いまここを生きているこの意識である、と考えるなら、私にとって世界の歴史とは、私の記憶(知識を含む)に他ならないのではないか。

現代社会でいえば、記憶と<私>の問題は、認知症の問題と重なる。記憶が薄れる、あるいは記憶の一部がなかなか蘇らない、あるいは失われるとき、<私>という実感は揺らぐ。だが、<私>とは記憶にすぎない存在なのだろうか? それとも、<私>とはもっと、意識されない潜在的な心を含むものなのか、さらには人間関係や環境の中に広がっているものなのか、そもそも心なんてものがあるのだろうか?

参考文献:
野矢茂樹『哲学の謎』講談社(現代新書)、1996年 5分前世界創造説紹介
永井均『私・今・そして神』講談社(現代新書)、2004年 5分前世界創造説と<私>
大森荘蔵『流れとよどみ』産業図書、1981年 「立ち現われ」
イアン・ハッキング(北沢訳)『記憶を書きかえる』早川書房、1995=1998 虐待・トラウマと記憶治療
小澤勲『痴呆を生きるということ』岩波新書、2003 ケアの現場から
河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』講談社(+α文庫)、1991=1997 認知症を含む老いを生きること