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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

合意形成は「ムリに」するべきものか?

私への(授業の設定への)異議申し立てかもしれない面白いコメント(エントリ?)を「フランソワにっき」でみつけたので私の考えを書きたいと思います。
私には応答責任があるような気もします。

フランソワさん(でいいのかな?)は、「昨日授業の中で「理想的な合意形成」と聞かれたらそれは「みんなが妥協することなく1つの考えにまとまること」だと思いますが、それはムリなことなのではないでしょうか。」ということを書いてます。
それは非常に面白い論点をついているように思いました。

「面白い」のは、もし「合意」を否定するなら、その人はいったいどんな社会をイメージしているのか、まったくアナーキーでひととひとが自分の考え、自分の意思でばらばらに行動しているような「社会」とは言えない状態か、そうでなければ人々の「考え」や「物事に対する姿勢」がまったく同じであるような「社会?」を考えているのだろうか、と感じたからです。
(ここでの私の前提は「社会をつくるには何らかの合意形成が必要だ」というものです)
これは「社会とは何か」「なぜ社会を作るのか」そしてそれはたぶん「人間とはいったいどういう存在なのか」という哲学的な問いにつながっているからです。

私自身は合意形成が簡単だとは思っていませんが「ムリ」だとは思いません。
以下その理由を説明します。

まず、「合意形成」ですが、それは「その場の人が同じ精神状態になること」とは別のことだと私は考えます。
そう理解するなら、別の意見を持ったまま、別の考えを持ったまま、お互いに「これを実行しよう」という合意が形成されることはあり得ることになります。
お互いの考えは一致しなくとも、次に何をするかについてそれぞれが納得できればそれで「合意」だと思いますし、社会を作るには十分です。
そうでないなら、社会を作るということは、全員が一つの考えになるということで、私としてはちょっと気持ち悪い気がします。

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