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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

リアリティ

tetsuyasatoさんの「スリーテンを振り返る」のリアリティの話に寄せて。

ある問題にリアリティを感じられるかは、難しい問題だと思います。
もしリアリティがないならその人にとって問題は問題ですらないわけで、向かい合う意味もなくなってしまう。
学問には、その扱う問題について、誰にでもリアリティを感じやすい領域にかかわるものと、人によってリアリティを感じるか否かが大きく割れる領域にかかわるものがあるのかもしれません。

前者については一般化された積み上げ教育が有効であるとしても、後者についてはまずどうリアリティを感じられるかどうかに、問題設定やアプローチの仕方が依存すると思われる。だからこそ、このような学問は学生の自主性を重んじることになっているような気がする。
学問については、文系/理系という受験生的な分け方よりも、例えばこのような分け方のほうが意味があるだろう。

また、ある問題をリアリティと共に問題と感じるからこそ、その問題への取り組みに「参加」しようという気になるでしょう。
いわば、自分の人生の一つのテーマとして、こんどはそれが自分に自分にリアリティをもたらすでしょう。
リアリティがあるからこそ、その問題に取り組む意味も出てくるし、喜びも湧いてくるのです。

自分個人に直接にかかわる利害関係や、愛憎の問題、エンターテイメント、アイディンティティのような問題なら、学生でもリアリティを感じるでしょう。でも、社会や政治の問題にリアリティを感じること自体、けっこう難しい気がする。それは、学生が社会や政治の変化から比較的致命的な被害を受けたりしにくい立場であり、また、政治に参加しようと思っても、社会や政治の問題はなかなか敷居が高い気がするでしょう。

どうやったら、問題に、特に単に自分がお金を儲けたいとか、自分が楽しくしたいという以上の問題を、例えば公共的な問題、政治の問題などを、社会におけるある問題として理解できるのか。あるいはできないし、する必要もないのか? 気になるところだ。