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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

【成人年齢】 「成人」陰謀説

「何歳で成人とするべきなのでしょうか?」

と、こう問われたら、どう考えるだろうか。
ガバナンス論演習参加者のエントリを見ていて多かったのは2つのアプローチ。

1:「成人」の定義をして、ついでそれに当てはまる年齢を、現在の社会の実態を踏まえつつ、考える。
2:現在の「成人」の線引きの問題点を挙げて、それを改善する線引きを提案する。

どちらも正攻法だと思う。
だがせっかくなので、私は、別のアプローチの可能性を示してみよう。

1も2も、「成人」という概念には意味があることを前提していると思われる。だからこそ、(「成人」概念には意味があるとして)それを定義しようとしたり修正したりして、「それは何歳からか?」を問題にすることに意味があるというわけだ。

でも本当に、「成人」という概念には意味があるのだろうか?
もし意味があるなら、その意味のある線引きが何歳からであるのかをまじめに検討してみるのは確かに建設的な態度だ。

しかし、ひょっとすると「成人」という概念は、「本当は」何も意味のない概念なのかもしれない。
「今の世の中大人と子供との区別があんまり意味をなしていない」(あらかさま「うなぎはうまい」)という意見もあった。
例えば、現代の日本社会では「士農工商」の線引きが、かつてほど大きな意味をなさなくなっているように、「成人」概念も、何十年か後にはたいして意味のない概念だったと皆が考えるようになっているかもしれない。

ただ、現在の日本社会では、皆が指摘しているように、「成人/非成人(未成年)」で、社会的に重要な区別が設定されている。
だから、もちろん「成人」を問題にするのは意味のあることだろう。
問題は、それをどう問題にするかだ。

とにかく「成人」という線引きが必要だと思い込んで議論してしまうと、まじめに議論するほどに、そう思い込ませてやろうとたくらんでいるかもしれない狡知に長けた「身分制」維持派的存在?の戦略にはまってしまうかもしれない。

そこで、私の示したいアプローチは、例えば「いったいどうしてこういうことになったのだろう?」そういう疑問の持ち方だ。
そう問うことで、「何歳で?」と問い方自体への疑問や、別の方向も思いつくかもしれない(「うたたね日和」cassiopeiaさん)。

誰が、何のために、こんな線引きを必要として、どうやってこの線引きを当たり前のものとして、社会に浸透させてきたのでしょう?
そして、それは、合理性のあることだっただろうか?

可能性の提示と問いばかりで、積極的な意見ではありませんが、私が「成人」という言葉にしばしば違和感を感じてこの社会で生きてきたことは確かです。
社会に線引きすべきでないとは思いませんが、あまりにも安易で乱暴な線引きのように感じることは多々あります。
たとえ何歳に設定しても、皆が例を挙げてくれたような現在の強力な「成人」概念がある限り、私のこの違和感は消えることはないでしょう。