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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

環境問題

ブランチしながら、アンテナをつないでテレビを見た。
NHK総合で「Save the Future」、金-日の連続企画をやっている。
飛行船を「日本列島」の上を飛ばしながら、世界各地からの取材、映画、イベントなど、スタジオで情報を集約しながら、番組を進めていく。

テレビは相変わらずだ。
昔からのシナリオ。

「いやー美しいですね!」
「しかし、温暖化は進行しています」
「こちらは○○です」
「この美しい○○の××に異変が起こり始めています」
深刻な音楽
「○○のせいで××なのです」
専門家とグラフ登場
「急激に○○になっています」
以下、適当に進行
「さて、飛行船はどうですかー?」
「えーこちらは今○○です。」

先ほどは、沈むツバルの話題が出ていた。
温暖化では古典的な事例だ。
VTRのつくりも、スタジオのメンバーも、しきりとツバルの人々に「共感」し、かわいそうな人々に「同情」している。
結論:「やれることをやりたいですね」

僕がツバルの人の立場だったら、こう考える。
今まで「やれることをやって」こなかったことはそのまま免罪かい。
やれることってどの程度のことなのか?
それををどの程度やるのか?
やらなかったらどうするつもり?

具体的に考えてみる。
クルマに乗るのを止める?
クーラーを使わない?
使える服を捨てない?
過剰包装の商品は買わない?
不必要にお湯や洗剤を使わない。
植林その他の環境保護活動に参加する?

これらはとても難しいことだ。
そう簡単にできることではない。
ただ、ぜったい無理なことでもない。
一度でも本気でやろうとしたことのある人なら、その具体的な負荷が分かるだろう。
やってみたことのない人は、「絶対無理だ」とか「やれる」とか安易に言う。
スタジオの人びとがどのような経験とどのような資格に基づいて発言しているのかは、番組では明らかにされない。
タレントは、最初から神々の座で、神々の視点で、人界について軽やかに歓談する。

具体的に、どの水準で生活を改善すべきだ、そうでないなら偽善だと論じたいわけではない。
ではなくて、政策レベルから見て、環境問題に対する「啓蒙」「方向付け」はこのような方法でよいのかということを問題にしたい。
なぜなら、上で素描したNHKの戦略は、テレビだけでなく、初等・中等教育でも、政府関連のパンフレット等でも、そして下手をすると政策レベル、研究レベルでも、このような思考をベースに提示されてくる可能性があると思われるからだ。
スタジオには閣僚も登場してきた。

「やれることをやる」ってのはずいぶん便利な言葉だ。
「やれなかった」ことは「やれないこと」だったのであり、「やる」べきことではなかったことにできるからだ。
もし私がツバルの人であって、「同情した」だから「やれることをやる」と言われたら、その相手を信頼したいとは思わないだろう。

本気で守ろうと思わない「約束」をすることは、「約束」を破ったのか、「約束」がそもそも成立しなかった(「詐欺」だった)と考えるべきか。
本気で、対応しようと思わない「同情」は、同情したけど忘れちゃったってことなのか、それともそもそも「同情」ではなかったのか。

番組の中外でしきりに同情している人びとが、今後同情に値するだけの「やれることをやる」可能性はおそらく低いだろう。
「でもそれでよいのだ。ほんのすこしでも、意識が改善されたらそれは成果だ。」
そうかもしれない。
でも、そのために、タレントはともかく、視聴者の誠実や、ツバルの人々との倫理的関係を損ない、環境問題へのわれわれのアプローチを本質的にゆがめたものにしてしまわないだろうか?

政策ってのはそういうものなのかもしれない。
所得倍増計画も、平和維持軍も、国際援助も、少子化対策も、そうやって表面的な感情に訴えて促進されてきた。
月月火水木金金五族協和に王道楽土もそうだ。
でも、それが、バブルや環境問題、民族浄化や搾取、優生学、そして大戦なんかを生み出すのではないか。

ひとびとは、それを知りつつ、エンターテイメントとして、あるいはある程度の情報収集として、あるいはある程度の知として、この番組を見るほどに大人なのだろう(か?)。
としたら、政策も、その政策のもとでの自分たちの人生も、一種のエンターテイメントなのだろうか?
達観した立場だ。。
それとも、素朴にツバルの人々に同情し、「できるだけ」のことをするのだろうか。

お、NHKでの消費電力に焦点が当てられた。
NHKでは、LEDや風力・太陽光発電などで、「できるだけ」消費電力を押えているそうだ(批判・吟味じゃなくて、「できるだけ」に便乗した宣伝かい!)。

「できるだけ」「やれることをやる」
これは「現実主義」を自称できるロジックだ。
このロジック自体に以前から大きな欺瞞を感じ続けてきたのは確かだが、政策的見地から見ても疑問を感じたので言葉にしてみた。