blog2735

Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

政党政治の限界について

土曜日に藤本議員のお話を聞いたので、それについてコメントしておきます。
ブログ演習参加者のエントリをトレースできてないので、まずは勝手にコメントを出します(ごめんなさい)。

藤本議員は、立場上ということもあると思いますが、現在の議会制民主主義の枠組みのなかで民主主義の政治を立て直すことを構想されていました。
おおまかに論旨をまとめます。
現在の自民党による日本の政治は、政治家による言論による意思決定でなく、官僚による言論なき政治になってしまっている。
だから、公務員と政治家の接触を制限し(あるいはオープンにし)、民主党のようにマニフェスト・ベースの選挙を進めることで、言論による民主的な政治が実現するだろう。
そのためには、戦略としてまず政権交代を実現し、民主党だけでなく、自民党そして市民が、言論ベースの政治ゲームのプレーヤーにならなければならない。

このビジョンを否定するつもりはありませんが、いくつか疑問は残ります。
民主党が政権をとるとして、その場合本当に、自民党は変わるだろうか、市民は変わるだろうか、そして、民主党は「自民党化」しないだろうか?

もっとも根本的な疑問は、会場でも質問しましたが、官僚機構(行政)と政治の問題です。
近代以降の国家は、ウェーバー『職業としての政治』にあるように、官僚機構が意思決定に関わる重要情報をにぎり、なし崩し的に言論を欠いたまま方向決定されていくという問題があります。
藤本議員の話でも、議員立法がなかなか難しい(ので閣僚立法になる)ということが、根本的な問題とされていました。
仮に民主党が政権をとったとしても、この問題は一向に解決されないのではないかというのが私の疑問です。

会場でも述べたように、私の考えは、議会と官僚、立法府と行政府だけで民主主義を考えていては、解決の糸口はないというものです。
我田引水のようですが、私はこう考えます。
NPO、専門家集団、大学、企業などなどが、行政に協力的・相互批判的参加し、情報と合意形成と実施を共有していくことで、すなわち風通しのよい活発なガバナンスを築くことで、官僚機構の本質である(目的合理性:ウェーバーによる)盲目的暴走をコントロールしつつ、労力はかかっても市民が正しいと思い納得のいく方向に舵を切っていくしかないのではないでしょうか?

これで、すくなくとも、利権によって、巨大な道路や空港、都市計画などが、言論なしに、「お上」によって強制され、コミュニティや市民生活が破壊されていく現状はチェックされ改善される見込みがあるのではないでしょうか。
ここで、効果という点では、効率がいいとは限りません。ただ、めちゃめちゃひどいことには抑制がかけられるメリットがあるというわけです。
加えて、参加すること自体が市民生活を豊かにしたり、コミュニティや問題へのコミットメントを深め、アイディンティティを形成するという作用が期待できるのではと思われます。
そしてこれこそがガバナンスの真の目的であり、醍醐味だと思いますが、どうでしょうね。

さて、こうしたガバナンス的な参加民主主義を構想した場合、藤本議員のお話を関連して気になるのは、その社会での立法府の役割です。
行政に政府と共に市民が参加し、意思決定、実施、評価のすべての局面に十分に深くコミットするなら、これだけですでに民主主義は実現されていると言えることになります。
すると、議会は、せいぜい市民の協力を得て行政から提出される法案について、法的妥当性について確認して承認するだけの役割しか残らない(法律家でOK?)のではないだろうか?
あるいは、行政に対する市民側の監査役という意味合いしか持ち得ないことになります(ただし、行政からの情報に依存する素人でしかないとしたら、NPO・大学等の専門的機関以上のチェックができるかどうかは疑問)。

私は議会不要論に与するわけではありませんが、藤本議員の議員の立場からの話を聞いて、今後議会の役割は難しいものになるだろうと感じました。

アーレント講談社現代思想冒険者たちシリーズ推奨)によると、政党政治の場である議会は、公然と市民たちの私利私欲の調整の場となっていますが、むしろ本来は、私利私欲を離れた公共的関心に基づく言論の場であるべきとされます。

とすると、現在のように、地域ごとに小・中選挙区を設定したり、おおざっぱに政党ごとに票を割り振る比例区という発想は、妥当性を持たないかもしれません。
むしろ、公共的な配慮に基づいて、言論を構成できる能力と態度を持ったメンバーを議員として選出すべきなのかもしれません。

抽象的な話でしたが、各々具体的事例で検討してみてください。
(私は公共事業と環境問題・地域づくりのような問題権で、議論をイメージしていました。)