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【ガバナンス論1】公共性論

http://www.geocities.jp/yoshida_inf/siryo/edpublic.JPG
ガバナンスは、自発的協働による自治とでもいったものだが、それは公共性の思想を現代社会において体現しようとした動きである。

日本語の「公共性」には、斉藤純一『公共性』(岩波)のイントロによれば大きく三つの意味がある。
1.公的(official)なもの ex.公共事業、公教育
2.すべての人々に共通の(common) ex.公共の福祉、公共心
3.誰に対しても開かれている(open) ex.公開、公然
これに対して、対義語はそれぞれ、1.民間の、2.個人的な、2.閉じているとなろう。ところが英語だと、対義語はすべて「私的なprivate」に集約される。つまり、私的なことがらだから、それは個人的なものであり、国家などの公権力は関わらないし、立ち入らないということである。

こうした発想・思想がどうして生まれ育ってきたのか。どう受け止めるべきなのか。その問いの核心に迫るには、古代ギリシャ以来の西洋の長い思想史的な経緯をたどらなければならない。その課題は情報モラルデザイン論に譲って、ここではあくまでガバナンスを支える思想として公共性を解説、検討しよう。

昨日取り上げた鴨川ガバナンスの問題は、京都に住む人訪れる人々の共通の関心事、つまり社会的問題である。典型的には、河川や道路のマネジメント、外敵や災害などの危険要因への対策、都市ならば広場や公園、農村ならば入会地の管理などが、こうした公共の問題である。近年の社会の胎動に注意するなら、「環境」を基本的な概念にしようとする動きが感じられるだろう。

こうした問題を、従来の近代社会ではどうしてきたか。巨大な力を持つ資本(大企業など)が支配するか、あるいは国家(官僚)が管理してきたのだ。誰が道路や鉄道を敷設し、誰が堤防を築き橋を架け水道を引いたか。彼らに情報と力が集約され、彼らの判断で社会の骨格が作られ、我々の生活の基本方向は決定されてきたのである。現場から離れて遠隔的に。そして、現場に有無を言わさずに暴力的に。問題はまず現場の人々、個々の具体的な人々のものだ! 60年代から70年代には、こうした支配力への疑問が社会の各領域で大いに高まった。
そして、試行錯誤の末、共通の問題ならそれに関わる人々すべてに開かれているべきだという思想が次第に説得力を持ち始めた。この議論には、自己決定権をはじめ、生きる権利、多様性、人間的合理性など、いくつかの系譜がある。ともあれ現在では、力のあるものが社会的事柄を好き放題にしても構わないとは誰も思わない。近代民主主義国家は、官僚制や独占資本主義の持つ本質的性質、そして植民地獲得競争や冷戦下の経済復興などさまざまな歴史的要因から、各国家はその内部で絶対王政にも似た統治システム(ガバメント)を、むしろより強固に構築してきたのだ。ガバナンスとは、情報化等の状況を契機として、こうした旧体制に対する反省とこれを乗り越えようとする努力と言える。

思想的内容に注目するなら、ガバナンスとは要するに、共通の問題(公共性2)を、公的(公共性1)の意味でなく、オープン(公共性3)の意味を優先して捉えようとすることである。共通の問題は、まず関係者に対してオープンでなければならない。その上で、必要に応じて公権力(や巨大企業)が問題解決に参加すればよいのだ。決して公権力や巨大企業が独占的に支配してはならない。

「独占的に」とは、つまり「排他的に」ということである。ここでガバメントから排除されているのは、個々の現場(関係者)である。彼らは「アクター(関係行為者)」と呼ばれる。問題に関わるあらゆるアクターは、その問題への対処に、関係の程度や能力その他の条件に応じて参加する権利があり、問題への対処においては実際に考慮されている権利がある。(参加(市民)と考慮(合意)ついては次回・次々回)

斉藤が問題にする(ibid. pp.5-7)公共性と共同性の違いについて考えよう。斉藤の議論を簡単に敷衍するなら、共同性は同一性であり、公共性は多様性である。出る杭は打たれるようなムラ社会は共同性の支配する、閉じた社会である。さまざまなアクターが存在して協力しあう社会、すなわちガバナンスは公共性の支配するオープンな社会である。そして、どうやって「多様」で「オープン」という理念を実現するのかという具体的な方法論がガバナンスの実質である。

最後に、「合意consensus」について。ガバナンスにおける合意とはある意見opinionにメンバーの全員が同意agreeすることである。意思や感情が一致することなどと捉えてはいけない。それは、ガバナンスが共同性でなく公共性をベースに置くからである。一致は、一個の人格を持つ存在にとっては、理想論というよりも、むしろ恐怖であり、おぞましい(『1984年』)。