blog2735

Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

谷中地区のまちづくり運動

谷中地区は、東京都台東区の一角である。上野公園のある台地の続きで、公園の北側に広がる谷中墓地とその周辺に残された古い住宅街である。山手線で言えば、上野-鶯谷-日暮里-西日暮里の西側であり、地形的には台地とその千駄木の谷へ降りる斜面、斜面を降りた千駄木の谷間によって構成されている。千駄木の谷の向こう側は東大がある本郷台地である。

江戸時代には、本郷台地は赤門のあった前田家に代表される武家屋敷だったが、谷中の方は寛永寺の広大な寺領だったという。どちらも維新で召し上げられ、本郷台地の方は、漱石に代表される学者や文学者による西洋文化のまちとなり、谷中の方は岡倉天心に代表される上野公園や芸大が象徴する工芸のまちとなった。台地の上にあったので、震災や戦災を比較的軽傷でくぐり抜けて、現代まで江戸~平成の東京の歴史を引き継いできた。また谷中は、明治期には、日本橋あたりで成功した商工業者が家を構える「山の手」だったそうだ。山の手は、時代を追って、その後渋谷や新宿の方に移動し、さらに昭和になって多摩の方へと広がったのである。谷中は、いまでもそうしたアートの同居する静かな住宅街であり、この土地が気に入って長く住み続けている一家も多いという。

こうした住宅街が東京のど真ん中でさりげなく生き残っていくことは、実は大変難しいことである。災害、地下、開発、観光、その他、大都市東京ならではの巨大な磁力が働くのだ。東京の多くのまちはこうした磁場の中でそのアイディンティティを失い、あるいは変貌させながら、昔の姿と心を失っていった。だが谷中は、その地形と、大きな墓地と公園に挟まれた条件から生き残った。そして、いまでは昔からの住民、新しく住み着いた住民、大きな地権者である寺社、地元の大学やNPO、そして行政などが連携して、意識的にまちを残そうとしている。

調査では、地元の古民家を拠点として活動する「たいとう歴史都市研究会」を訪ねて、お話を伺った。お話いただいた方は、以前は横浜の歴史的建造物を残した都市開発に参加されていたキャリアをお持ちで、横浜から谷中へという不思議なつながりを思った。合意形成の仕方から、組織作り、活動事例、成功・失敗の事例まで、丁寧にお話いただいた。その辺は研究へ回すとして、印象的だったのは「住む」ということ、そして昔ながらのものへのこだわりだった。古い住宅を保存し、活用するという活動だから、こうしたこだわりは当然のものかもしれない。だが、古いものを大切にしてまちづくりを進めるという戦略は、谷中だけでなく、馬車道商店街にも、そして浜松の近くだと新居町でもそうした取り組みが見られる。そして、その戦略が、巨額の資金と壮大な都市計画による都市の再開発に比べて、大いに的確なものだと私には思われるのだ。好みの問題かもしれないし、大規模都市開発に対する批判は、ジェイコブズをはじめとしてすでに多くの論者から出されている。

では、古いものにこだわる、住むことにこだわるのは、まちづくりにとってどういった意味があるのか。それが、このごろの私を捉えて離さないひとつのテーマである。仮説がないわけではないが、もうすこし考えて慎重に展開したいので、あとはそれぞれ考えてみられたし。