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『砂の器』 社会と情報の淵について 【2】

【1】のつづき

砂の器』は、Amazonではミステリーのジャンルに入れられていたが、物語は、ある殺人事件について、刑事が断片的情報をつなぎ合わせて、被害者の関わる過去を明らかにしていく。

「個人情報」とは無機的なデータのことだと思っているひとは、個人についての情報とは何か、そもそもどこに存在しているのか、どのような意味を持つものなのか、考えさせられるだろう。殺人と被害者に関わる情報を辿って、映像は、東京を中心に、東北からはじまり、出雲、伊勢、大阪、能登へと、移動を続ける。美しい、そして懐かしい日本の風景の中、「過去」が浮かび上がってくる。

こうして、人の足跡を辿ったことがあるだろうか。人は空気ではなく、重さを持った存在だから、必ず足跡を残す。情報である。それを、どこまでも、どこまでも、たどっていく。意外にひとの足跡をたどる旅は深く面白く、ドラマに満ちている。そして、そうやって、人は人の存在を明らかにしていくことができる。だからだろう。どういう意味があるのかよくは分からないが、ひとは時に自分史をたどり、時に誰かの跡をたどる。そして、存在へと迫ろうとする。

作品では、ある人物の人生(作中の言葉では「宿命」)が、少しずつ、明らかになってくる。明らかになるのは、社会派的に言うなら、ある種の暴力、行政的権力や社会的偏見、専門家の力、などかもしれない。例えば、「警察権力」「村落の問題」「優生学」といった、トピックスだ。あるいはむしろ、映画版では芸術や宗教の次元が示されていたようにも感じた。例えば、「愛」や「運命」、「命」、「親」、「人間存在」といった、問題圏だ。美しい日本の風景が、問題をむしろ深く際だたせる。

そう。情報学が扱っているのは、まさにこうした存在あっての情報なのだ。ただのお遊びじゃない。生きた情報とは、こうしたルーツや深み、広がりを持っている。だが、情報学に関わる研究者も学生も、こうした深みを感じることもなく、ただ表面的な効率性や利便性、プラスチックな「ソリューション」や「創造性」を追いかけてはいないだろうか。私は、そうした知的な営為を否定はしないが、批判はしたい。しかし、もし情報学において、情報をめぐる深い淵の存在を全く感じることもなければ考えたくもないならば、そういうひとに人間や社会に関わる情報について扱う資格があるのかどうか、疑うだろう。

私自身も例外ではない。ガバナンスについて、情報モラルについて、私自身が知るべきことのうち、何を知り、何を言葉にできているというのか。また、ふだんの授業や学生との会話、その他の機会に応じて私から発する私の言葉で、人々に何を伝えられているのか。じっさいに自分には何かができると信じて、大学なんぞに籍を置いているが、何ができるのだろうか。

そう考えると、はなはだ心許なくなる。ただ、こうした作品から何かをしっかりと感じることができること、それについて忘れないでこだわり続けることができること。それだけが自分のアドバンテージだと思う。

砂の器』を以前一度だけ観たことがある。たしか、小学校の5年生か6年生のころで、当然、当時はほとんど意味が分からなかった。この作品が観る者に要求する歴史的・社会的文脈をまだ十分に理解する力がなかったし、問題を言葉にするための、表現的レパートリーも圧倒的に足りなかった。先生はきっと、この作品で偏見はダメで「科学的」に思考すべし、と言いたかったのではないか。しかし、当時にして、この作品はそれ以上の強い印象を私に刻印した。何かこの作品に感じるところがあったようだ。ずーっとそれを言語化しないままに覚えていて、今回ふとそろそろ潮時かと感じて、作品を購入してみたのかもしれない。ちなみに、『八つ墓村』もよく憶えていたが、同じ監督の手による作品だったようだ。

砂の器』は作品表現としても非常に巧みにできていて、何か作品をつくったことのある人、つくろうとしている人なら、ただ感心するのみならず、嫉妬を感じないでもないだろう。たとえ、この作品が嫌いであろうと、この点は認めざるを得まい。テーマのみならず、音楽や映像も楽しむことができ、実にうまくテーマと内在的に結びついている。作曲や演奏をめぐるひとつの物語りとして観ることもでき、これはこれで示唆的で感動的な作品だ。懐かしの俳優たちも、それぞれに楽しい。

ということで、夜も更けてしまったが、明日の「ガバナンス研究会」への話題提供としよう。