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内面から外面へ 監視カメラと犯罪

「監視カメラ」と犯罪の問題について調べものをしていて、思ったこと。

監視カメラの設置を後押ししている考え方に、「犯罪原因論」から「犯罪機会論」へという議論があるようだ。
直近の動向は分からないが、この数年でこうした言説はずい分と活字メディアやwebに出ていた。

犯罪機会論をどうまとめるかは、関心しだいだが、私は犯罪を防ぐための方法論という観点から、こうまとめよう。

犯罪を防ぐには、犯罪の原因であると考えられる犯罪者の心理や発達過程、社会環境、社会構造などに目を向けてそれを改善しようとするのではなく、潜在的犯罪者が犯罪を実行してしまう機会を研究し、そうした犯罪機会を合理的に削る方が効果がある。

犯罪機会は次の3つに整理される。
1:領域性(侵入しにくいように仕切られているか)
2:監視性(行動が見張られている)
3:抵抗性(犯罪行為に対して対抗的な力の存在)

1~3について、ハードウェア(道具、装置、設計)とソフトウェア(当事者や関係者の意識)を高めることが、犯罪機会論の立場からの安全性向上策ということになるそうだ。
監視カメラが、こうした議論の文脈で、監視性を高める装置・設計として現れることは明白だろう。
・参考:『犯罪は「この場所」で起こる 』(光文社新書)小宮 信夫

文献を調べると、監視性を高めるにしても、必ずしも監視カメラが有益とするものばかりではない。
例えば、監視カメラを設置したせいで、犯罪可能性に対しての個人やコミュ二ティにおける意識面での低下が生じたりする可能性が論じられたりしている。

そこらへんの判断は、周囲の治安の問題、警察などの力の問題、周辺コミュ二ティの性格、個人の資産や能力などに応じて、ケースバイケースとなるだろう。
ただし、こういう場合はこう判断するのがいいだろうといった、ある程度の目安や指針のようなものを立てることは可能だろうし、また有益なことであろう。

私が懸念するのは、何が何でも監視カメラをつけるのは良いことだとか、監視カメラは絶対反対だとか、反対するなんて絶対におかしいとか、そういった先入観を直接に表明するないし実行するようなケースである。
世の中で稼動しているカメラの多くは、たまたまそうした機会に恵まれた「管理者」の、こうした先入観を表現しているに過ぎない可能性が高いと、私が見たカメラ導入に関して行われた議論過程から、私は推測する。

私が書きたかったのは、ここ10年ほどの日本社会での個人を見る目が、すっかり内面から外面にと変化したのではないかということ。
犯罪原因論から犯罪機会論へのシフトは、そうした変化を反映したものと見なすことができるだろう。
カメラは犯罪機会を減らすという効果もあるが、対面的な監視に較べると内面へのアクセスが圧倒的に少ない。
対面的な監視であれば、じっくり観察するとか、つぶやきに耳をすませるとか、即座に話しかけるとか、罵声を浴びせるとか、内面を推し量るプロセスと一体化している。
カメラは、その度合いが圧倒的に少ない。

カメラ導入に当たって、監視性が強調され、先にそうしたセキュリティ歓の違いが監視カメラで表現されているのではと書いたが、実際に生じていることはむしろ、内面性から外面性へというアプローチの変化ではないのか。
外面的なルール違反を見張る装置がカメラである。
カメラは、運動競技で選手がルール違反していないか、どちらがどこに、あるいは先に、接地したかをチェックする。

競技というゲームを成立させるための装置なのだ。
監視カメラは、そういう意味で、われわれに善良な市民ゲームをプレイさせるために効果を発揮する。
(この点については、ボガートやさらに遡るならボードリヤールの議論を読まれたい。)
他の効果や副作用もいろいろあるだろう。
だが、私がここで書きたいのは、表面的には監視性が表面では問題になっているようでも、じつは市民ゲームをセットするということが本質であるようなケースが多々あるのではないかということ。
また、そうだとすると、われわれは「市民ゲーム」について、もうすこし考えた方がよいのではないかということ。
われわれは「市民ゲーム」を望んでいるのか。そもそも、それはどういうゲームなのか、誰がそうしたゲームをイメージしてセットするべき立場なのか、それを望まないというのはどういうことなのか、などなど。

犯罪機会論は一つの言説だが、私としては、少々言説のための言説っぽいなと感じたところがる。
そして、警察や自治体、会社や学校など、さらにはコミュニティがこうした考え方のみでカメラの設置するとしたら、ちょっと的を外す危険があるかもと感じたので、その印象を簡単にだが、言葉にしてみた。