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『噂の女』(溝口健二、1954年) 近代化・ジェンダーの向こう側

UCバークレーの Pacific Film Archiveでは、6月-8月にかけて、日本映画の巨匠とされる溝口健二http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E5%81%A5%E4%BA%8C)シリーズを上映している。
溝口作品を1946年の『歌麿をめぐる五人の女』から1954年の『噂の女』まで何作か観たのでここから考えたことをまとめておく。(少しネタばれ)

この時期の溝口作品が描きだすのは、下町や遊郭の女性たちの義理人情にあふれた生きざまである。対比されるのは、金や地位、社会的な建前を盲信する男性である。男性の側には女性たちの生きざまに共感して「こちら側」に立つ者に対して、「あちら側」に立つ者たちがいて、そのぶつかり合いやすれちがいの中で物語が複雑に進行する。

遊郭が描かれるのは、そこがこうした生きざまが複雑に交錯する場であり、溝口好みの舞台設定だからだろう。

『噂の女』は、こんな話だ。東京で近代化した女性が実家である京都祇園置屋に戻ってきて、そこで、町医者である一人の若い男性をめぐって、彼をいわば囲っていた母親と三角関係になる。そこに遊郭の女性たちの人生模様も交錯する。『祇園囃子』では遊郭に現れる男性たちの「あちら側」の人生模様もいくらか描かれるが、「噂の女」はあれこれあって、いわば東京の「西洋文化自己実現、自由恋愛、近代文明、利己主義」といった世界から京都の「伝統文化、義理人情、技芸と交遊、共感と助け合い」といった世界に自分の居場所を再発見していく。

PFAは並行してインド映画の巨匠であるSatyajit Rayの作品も上映しているが、溝口の作品もRayの作品と共通して、戦後アジアの安易な近代化・西洋化(特にアメリカナイズ)に対する批判的な観点は感じられるだろう。溝口はさらに、遊郭で稼ぐ女性、「アプレ」意識を際立たせる女性を登場させて、女性の自立についても繊細な描きこみをしている。

バークレーのお客さんは、観賞中も実に素直に反応を表現し、映画が終了と毎回必ず拍手。ただ、彼らとは笑いのタイミングが合わないとよく感じる。バークレーの聴衆は、女性が男性をうまくやり込めるとき、反応するのが分かる。そこには、人権、ジェンダーの意識で反応しているときと、ホームドラマでよくある掛け合いの妙に反応している場合があるように思える。だが、私はそこで笑えない。

溝口の作品で女性が権利を主張するのは、あたかもアメリカ的な「自由」「人権」の価値観のストレートな表現であるように見え、溝口は確かにそういう女性を好意的に描く。だから、バークレーの聴衆は「よく言った!」とばかりにどよめく。だが作品のポイントは、『噂の女』が典型だと思うが、じつは作品の進行によってだんだんそういう素朴な意識が立ち行かなくなるところにある。つまり、女性の権利の問題ではなく男女にかかわらず付け刃で輸入された「人権」という言葉を含むアメリカ的利己主義や即物主義に対する批判的な眼差しが溝口作品のなかにはあるのである。だから、反射的に「人権」の側に立って笑う聴衆は、観賞中に心の革命が起こっているのでなかれば、作品の進行にしだいに不満を覚え、最後は何か納得のいかない気持ちで映画館を去るのことになるのではないか。

また、バークレーの聴衆は、作中の女性が男性をやりこめるとき、アメリカのホームドラマっぽいやり取りの妙を楽しんでいると感じる。しっかりものの奥さまがうっかりもののだんなさんをやり込めるイメージだ。ホームドラマでは、女性の機智の優越や経済的支配力のようなものがちらりと見えたりする楽しさがある。だが、溝口作品でのこの掛け合いは、ちょっと笑えないシーンであることが多い。『噂の女』では、女性が男性をやり込めるシーンは、最終的には正真正銘の命がけになる。溝口作品の女性は、余裕があって男性とやり取りを楽しんでいるからやり込めることができるのではなく、人生を追求する真剣さにおいて、刃物の切っ先で金や地位の世界のロジックで彼女たちの人生を安易に潰そうとする男性たちを圧倒するのである。だから、そこは戦慄するべき(布石)だろう、と思うのだが、聴衆は溝口作品をホームドラマ化する。

しかし考えてみれば、ここに、作品そのものが鈍い刃物のような迫力を持って、聴衆に向けられているという形で、作品メッセージがメタ的な状況を構成しているとも言えないか。作中における女性&刃物と男性の関係が、溝口&作品と聴衆の関係に類比する。
溝口のこうした聴衆をいやらしく絡みとるような作品作りは、まことに巨匠の名に値するもので、噛めば噛むほどに出汁の出てくる昆布のようだと思う。

ところで、こうした安易な権利主張、近代化の主張でないとしたら、溝口作品は近代化批判、伝統文化の尊重といったメッセージなのだろうか。そういった側面は確かに多分に見られる。伝統的な木造の街並みや建物、華やかな着物や美しくしつらえた料理や小物類、技芸や立ち振る舞いの美しさ、こういったものを存分にしかも長いカットの中にさりげなく表現した画面作りの美しさは、誰しも深く印象付けられるだろう。

当時の日本は、いわゆる朝鮮特需の真っただ中、サンフランシスコ平和条約で国際社会に復帰し、京都は国際観光都市を目指して観光化を進めている時代である。
(web上に「京都における文化変容の可能性ーー祇園祭の事例から――」(小野)<http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/thesis/2002/ono.htm>という2002年の?論文があるので参考になった。当時の学生さんの論文らしいが、筆力がありレヴューとしてよくまとまっている。勝手なことを言うと、研究としても非常に面白い着眼点だと思うので、ぜひ聞き取り調査をしてさらに問題意識を掘り下げて欲しいものだ。)
溝口は、その時代に古き京都の伝統を共感的に描き出しているのだから、とうぜん伝統の世俗化、近代化、京都の観光化への批判的な政治的、社会的メッセージはある。

だが、溝口作品の特徴とされる長いカットが表現する深い眼差しは、単に伝統美を映しだそうとするものではないだろう。
長いシーンは、人物を即座に属性判断せずささやかな変化や表現をカットせずに落とさずに捉え、その人の生のありように深く静かにそしてあたたかく迫る眼差しである。また、長いカットは、ある場所に立ち替わり現れる多数の人物たち、そして人のいない時間でさえ、その場に残る物音や影、空いた引き戸の配置などによって、人と人のつながりの気配を表現する。これもまた、溝口の描き出したかったものだろう。いずれも、私たちの生活において、表立って現れてくることのない、背景というか暗黙の前提のようなものだ。それは、意味コードの特定の体系として「文化」と呼ぶべきかもしれないが、そう呼ぶことで「○○文化」といったラベリングを呼び込むなら、溝口の面白さは失われるだろうと思う。

だから私は、溝口は「伝統文化」の側に立って「近代化」「西洋文明」を批判したとはまとめたくない。そうも観れるかもしれないが、それでは、溝口の鈍く光るしぶとい刃物の存在感を、狂信的な尊王攘夷の刃と同一視してしまうか、あるいは、ただ昔を懐かしむおなじみの美学の小箱の中に押し込めることになろう。

したがって、別の可能性を求めるべきだと思う。長いカットで溝口が描きたかったことは、封建制の批判でも、女性の権利問題でも、最終的には近代や西洋文明の批判でもない。だとすると、どのように受け取るのがよいのだろうか。溝口作品では、観光客も、自動車も、会社員も、役人も、東京も、商人も、武士も、遊郭置屋、京都の町で渾然一体となって必ずしも否定されずに長いカットの中に現れ、存在している。善悪をはっきりさせ、悪を切り捨てて終わることはない。

だから、もちろん他の解釈を排除はしないが、一つの受け取り方として、私はこう考えたい。溝口は、義理と人情、芸術と交遊、そして共感に満ちた人生を真剣に追求しようとする生きざまに暖かい眼差しと共感を送りたいのだ。世界をそう見るという態度を、溝口の長いカットは、作品を飛び出したメタ的な構造のなかに私たちをとりこみつつ、伝えてくれる。私たちは、溝口作品を観た後、こういう主義主張を得たとは語りにくいだろう。だが、世界に対して以前よりも深い眼差しを向けるようになり、以前よりも人の生きざまに気がつくようになるのではないだろうか。

溝口作品には「変化」のモチーフがある。『噂の女』もまた、彼女にとって付け刃だった東京・西洋文化の眼差しから、「母語」というべき京都・置屋の人間交流へと眼差しが変化する物語である。ひととひとの深く長い絡み合いの中で眼差しが変化していく。誰かが変化の可能性から決定的に切り捨てられることはなく、完全な「あちら側」はない。注意深く観れば、「こちら側」の騒動が「あちら側」に共感やひそかな支持といったさざ波を起こしていることにも気づくだろう。
スクリーンに誰かが現れる前には光の予兆があり、誰かがスクリーンを去ったあとには温かみの余韻が残っている。この存在への眼差しにこそ、溝口映画の真骨頂があると言うべきではないか。 

こういった観賞を、当地の仲間たちと語り合うのは楽しそうだが、果たして私の英語力でこれを存分に表現することができるのか。ちと不安になったが、それは今後のチャレンジである。うまくいけば、観賞の観点はさらに広がるかもしれないのでがんばってみよう。

PFAでは、すでに並行して、上述のRayの作品(ベンガルの自然と暮らし、文明化、運命や自由の問題など)、デレク・ジャーマン作品(独特の美意識)の特集、明日から第一次世界大戦映画(各国の作品からプリズムのように)特集がある。学内の映画館だから、この一年間、ちょくちょく通うだろう。また思うところがあったらここにまとめていく予定である。