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「水着で街歩き 迷惑? 神戸・須磨」 社会問題記述の方法論

 
「水着で街歩き 迷惑? 神戸・須磨」神戸新聞NEXT 201487()530分配信、藤村有希子


須磨海岸」。たまたま目にとまったので読んでみるとその問題提示の仕方が興味深かった。あくまで議論によって問題を解決するべき、という私の観点からだが、社会問題の記述の仕方に関してコメントする。
 
須磨は関西の有名な海水浴場だが、駅をはさんで南側が砂浜、北側には駅前の町があって、すぐに落ち着いた住宅街へと続いている。光源氏ならずとも住んでみたくなるよい土地だ。


この記事は、海水浴客が水着のまま町を歩いて、町では問題にする声がある。はたして問題なのだろうか、と問いかける形で構成されている。水着で町を歩いても構わないという意見と、良くないという意見の両論を併記して、読者を議論に誘うというよくあるタイプの記事だ。両論をほぼフェアに併記してあるように見える。


しかし、それにもかかわらずこの記事は、やはり一方へと誘導しようとしていると思われる。なぜだろうか。分析してみよう。


この記事をざっと読むと、「水着のまま町を歩くなんてけしからん。そういう輩は人の迷惑をもっと考えて、マナーを守って楽しむべきだ」というメッセージを受け取るだろう。けしからんとされる理由は、3つ。1:常識として許せない。2:砂まみれになって困る。3:トイレなどが本来の目的に使えない。


このうち、ダイレクトに問題になるのは1だけで、2と3は別の問題である。確かに1が、2や3に関連して生じることはありそうなことではあるが、行為として別行為であり、対処も別々に起こすこともできる。混同すべきではないと思われる。


2と3が「けしからん」のは当然である。これは、問題行動を起こす人が水着かどうかとは、本質的には関係がない。特にトイレの占拠の問題は、実際的にもほとんど関連性はないようにも思われるし、砂の問題も水着よりは履物やバスタオルなどの所持品の問題かもしれない。この問題については、あれこれ憶測で立場を決める前に、まずは調査してみるべきだろう。


したがって、本来、ここでは1だけを議論すればよいのであるし、そうすべきなのだ。1の問題については、その社会が決めることなので、おそらく客観的な解はない。ちなみに、バークレーの町には、スポーツクラブで着るようなエキササイズ用のタイツみたいなのを着て町を歩いている女性がたくさんいて、私も当地に来た当初は度肝を抜かれたが、3か月で慣れた。これは趣味や文化の問題だから、基本的にはそこで昔から生活している住民に大きな決定権があって、最近やってきた住民や行楽客たちは、それを尊重しつつ意見を出し合って落とし所を探るということになるのが適切ではないかと私には思われる。


ともかく、記者が、われわれが社会的ルールとしておそらく「けしからん」と考える問題2と3を、あたかも1に関係するかのような形で議論に紛れ込ませているのが一番の問題である。こうした記述の仕方が、一読して誘導かな?と感じさせられた原因だろう。この記者は、そうすることで、1の議論に対して保守的な立場を援護したいのかもしれないが、これでは実際には議論を混乱させているだけである。仮に、こうした混乱した議論によって記者の擁護する立場が主導権を握ったとしても、反対派はだまされたような気がして納得できないだろうし、それは今後の海岸と町の運営に禍根を残すことになるだろう。


ジャーナリズムは、さまざまな立場を紹介するときに、それぞれの意見と問題との適切な論理的関係を考慮すべきである。問題をできるだけ適切に整理してフェアに提示することで、社会に議論の土台を提供することができる。
この記事ができるだけフェアになろうとしてあれこれ意見を引用したのか、意図的に論理を混乱させて議論をある方向に誘導しようとしたのか、私には分からない。ただ、記事を確認してもらいたが、この記事はあまりにもコメントの引用に頼り過ぎているのが不適切を引き起こしているとは言えるだろう。この記者は、地の文をより増やして、自分自身の視点や責任をはっきりさせながら、問題を紹介すべきだったと思う。


神の視点から一方的に社会問題を描き出し問答無用で裁定する態度は、アカデミズムや政策関係の言説ではよくあることだ。それに対して、社会問題についての当事者の語りを尊重しようとするこの記者の態度には共感する。ただ、この記者の場合には、議論の場から自分自身が退きすぎたことで、当事者たちの議論の無責任な記録・再生者になってしまったとも言える。


社会問題の記述について、私自身がはっきりとした解をもっているわけではない。しかし、いくつかの条件を挙げることができそうである。


1:まず、これは当事者たちに決定権と決定義務があるのだから、当事者にも分からない言葉で議論するのは間違っている。多くのジャーナリスト、アカデミズム、政策決定者はこのレベルで条件を満たさないことが多いが、この記者はこの条件はしっかりクリアしています。


2:次に、問題を語る自らが、この問題に対してどのような立場、態度、責任があるのか、ということは、問題への語りのうちに示されるべきだと思われる。この記事はここが満たせていません。


3:論理的に矛盾していたり、論理を装うような整理の仕方は、議論を混乱させ、公共的な議論を阻害するばかりなので、望ましくない。今回の記事では、これが私のまず気付いた問題でした。


まだ他にも条件があるはずだという気がしています。学問的妥当性をどこで担保するか。説得力や有用性をどうやって確保するのか。フェアであることをどう担保するか。多様な視点をどう合わせて問題、議論、物語として表現するのか。

うーん。理論に持ち込むと話が終息しなくなってしまった。
タイムアップということで、今日はここまでにさせてください。