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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

【哲学2015】 日本の思想 1 「ガイダンス」

2015年度 静岡大学の全学の教養科目「哲学」のコンテンツを載せていきます。

私は、学生時代、パスカルウィトゲンシュタインの思想を、理性や言語の力とその限界という観点で研究しました。方法としては、伝統的な文献研究によるアプローチで、テキスト解釈によって、テキストから興味深い思想を抽出するという作業です。このアプローチの面白いところは、同じテキストからでも、ひとによって異なる思想が抽出されること、自分自身でもテキストを注意深く読み直してみると、さらに新しい、深い思想が抽出されること、場合によっては、テキストの作者自身の意識していないかのような領域まで意識化できると思われること、もちろん、哲学の学会や社会においても新しい、興味深い思想が発掘される可能性が感じられることです。この方法論においては、特定の可能性を秘めたテキストは過去のものでありながら、常に新しく、思想の無限な可能性を探求するフィールドであるということです。
静岡大学に就職してからは、情報社会(を生きる人間)や情報技術についての思想・哲学を中心に研究しています。方法論は、上記の伝統的な手法のコンセプトをある意味引き継いでいますが、テキストとして選ぶものが大きく変わりました。伝統的な手法では、哲学的な「古典」と言われているテキストこそ、豊かな鉱脈であると見て、これを解釈するのですが、私は情報社会で生産されている多くの言説、作品、あるいは現象そのものをテキストとしてそれを解釈する方法を模索しています。ガバナンスの場合は、ガバナンスの活動そのもの、時には自分自身が活動に参加したその経験を書き起こしたものがそのままテキストとなります。情報社会についてかかれたテキスト、思想書は歴史も浅く、哲学の古典のように「豊かな可能性を秘めている」と信頼しきってよいものではありません。しかし、それを広く見渡し、うまく他のテキストとネットワーク的にリンクさせれば、そこにから新しい思想の可能性を浮かび上がらせることができるのでないでしょうか。要は、思想を抽出する工夫です。そして、抽出された思想は、どんなものでも、自分の生きているその場所からの、吟味・検討、そして新しい自分の思想のための手がかりとして活用できるはずです。私はそのように考えています。

2015年度の「哲学」では、「日本の思想」を扱います。どうして、日本思想を取り上げるかというと、昨年度1年間、アメリカのUCバークレーという大学に留学していて、日本思想について考えることが多かったからです。一つには、バークレーでは日本への関心は高く、ネット右翼や安倍政権と結び付けられて「日本の右傾化」が論じられることが多かったのがあります。また、私自身がバークレーでの暮らしの中で、庭や家のつくり、町の雰囲気、イベントなどの運営など、多くのポイントで日本とは異なる思想を感じることが多く、改めて自分の育ち思考のベースとなっている自分の文化や社会に内在する思想を検討してみたいと思ったからです。また、「日本の思想」といっても、時代と地域、人による差異は、もしかしたら、世界の国々に散らばる思想との間の差異よりも大きいかもしれません。東京・霞ヶ関で支配的な思想と、奥三河の山村で共有されている思想は大きく異なる可能性があり、明治とは言わなくても、昭和生まれと平成生まれの世代の間にも違いが広がりつつあるのかもしれません。さらに、自分の隣にいる人と自分自身との思想的な差異は、世界の裏側にいる「似たようなことを考えている人」「分かり合える人」との差異よりも大きいのかもしれません。しかし、なお、私たちが特定の言語と文化を解釈コードないし「地平」として用いることで、はじめて思考が可能となっているなら、思想について文化ごとの一定の傾向性を論じる意味があるように思います。今回は、「日本的」な特定の思想を取り上げつつ、人(その著者、吉田、受講者)や時代、地域による差異にも注意しつつ、全体的な特徴、傾向性を浮き彫りにし、それについて、改めて私自身の立ち位置から考えなおしてみたいと思います。

テキストとして、一番多用するつもりのなのは、アニメ『蟲師』や『もののけ姫』、あるいは『夕鶴』や漱石の小説などの日本的な思想を表現していると思われる作品です。シラバスには、かっこよく難しいテキストや思想のラベルを掲げていますがが、これらのテキストは、私が『蟲師』を読み解くために使用します。もちろん、授業でも紹介しますが、これらのテキストを授業で直接詳しく論じることはまれです。基本的に、アニメや作品を取り上げ、ここて展開される思想的要素を抽出して検討するという方法で授業を進めます。

こうしたアプローチによって、従来のように思想家やテキストを順に眺めていくという方式にはない、思想を内在的に、身体的に感じつつ考えるという経験を提供したいと思っています。テキストや思想家を要約したもの、説明したものを、順に眺めるという方式を、博物館陳列形式と呼ぶなら、体験型のパビリオンのようなイメージです。もっとも、テキストを順に紹介する方式でも、まるで思想家がその場にいるかのような、さらにはその思想かと教師がその場で対話しているかのような、さらにはその対話に受講者知らず含まれてしまっているかのような臨場感のある授業はあります。私にも、そういう忘れられない授業の経験があります。ただ、哲学や思想、文化を専門としない学生の教養科目において、言葉だけでそこまで深いアプローチをするのは、仮に哲学的問題について強い関心を共有できていたとしても、なお難しい面もあります。言葉だけの授業にのめりこむためには、そこで使われている言葉に対して普段から親密に付き合っていて自分の言葉にしている必要があります。これを、工学や理学など、非人文社会系の学生に求めるのは少々酷かもしれないと常々思ってきました。「哲学」という授業の目的の一つには、こうした人文的な言葉についても親しみを持ってもらい、今後もある程度こうした問題について、教養として折に触れて読んだり、考えたりしてもらうということがあります。だが、いきなりは難しい。本来、そのためには、高校までの間に、友だちや家族、学校の先生たちと、こうした会話をしてきて、そういう関心の延長線上に、大学の「哲学」があるべきなのです。だが、一般的な、日本社会の初等・中等教育を取り巻く状況、子供たちの生活状況はそういう環境にあると見なすことは難しいようです。だからこそ、まず、日常言語や日常経験で思想を表現、しかも、それを体験させることを主目的として構成された作品群を手がかりとして用いる意味があるのです。

授業としては、まず作品鑑賞、ついであらすじや要点、注意点などの確認、ついで作品分析による思想的エレメントの抽出(このとき、哲学史の知識を使います)、そしてその思想の説得力、一貫性、根拠、主張としての論理構成、可能性、弱点、などなどを検討します。最後に、その思想を全体評価しつつ、自分として、あるいは現代社会として、そこから何を得るべきか、どのような意義があるのかを考えます。

ときどき、小レポートを書いてもらったり、私と受講生、あるいは受講生同士のディスカッションを取り入れて、検討を深めたいと思います。最後に、1本レポートで授業を踏まえて自分なりの思想を展開してもらいます。