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コミュニケーション論 1016 授業資料

コミュニケーション論 1016 授業資料
第13回 ⑨言語・コミュニケーション行為と社会的次元
2017年1月16日 吉田寛

流れ
パート3:「コミュニケーション論の視座:日常性へ」
① 対人配慮の言葉:日常の言語コミュニケーション。どのような対人配慮がなされているのか。実際の会話分析:田村敏広(言語学
② 関係性と身体:言語以外の日常的な関係性を築く様々なコミュニケーション。身体性と慣習化された共同行為:金明美文化人類学
③ 言語・コミュニケーション行為と社会的次元:言語の意味に関する哲学的検討(規則のパラドクス)。国家、文化、主体と責任、身体性。社会実践と言語。:吉田寛( 哲学)

言語の哲学者 ウィトゲンシュタイン
20世紀を代表するオーストリア出身、イギリスの哲学者。天才とも奇人とも。
その思考は現代の学問状況に多大な影響を与えつづけている。20世紀最大の哲学者。
代表作は『論理哲学論考(論考)』(30歳ごろ)、『哲学探究(探究)』(50歳ごろ)。
『論考』(言語の意味論「像の理論」)は知の言語化・論理化。学問を現代化した。普遍主義で科学の論理的基礎を構築。
『探究』(意味の使用理論「言語ゲーム論」)は知の本質主義を批判。知の相対性、社会性、規範性を認識させた。
哲学、言語学、論理学、数学、科学論、社会学、教育、法学等に強い影響

1言語とは何か?
動物と人間 Logos(ロゴス)=理性(Reason)=言語(Language)
人間は言語を使う動物。人間の尊厳はどこに宿るか? 自然・社会を理性的に理解でき、相互に尊重し合うことができる。知の探究と共有(把握と予測、教育)、自己理解(分業、責任)、自由意思の遂行、他者の尊重(黄金律)、法・社会制度の実践(統治、協働)、人工物構築・環境管理(エンジニアリング)、趣味や芸術の一部(冗談や想像)は言語が不可欠。

記号と意味 情報の媒体
言語は意味をもつパターン。ただのインクのしみ、くぼみや雑音ではない。本質は意味であり、異なる音でも文字でも、身体でも同じ意味を表現できる。
言語は、情報を表現し、記録したり、伝えたり、編集したり、共有したりできる。人間にとって最も汎用的な記号システム。絵画や音楽、その他の表現と比べてみよ。

言語の一般性 
言語の特徴は一般性。記号の一般性:「犬」「犬」「いぬ」「イヌ」「dog」が同じ意味を表現しうる。意味の一般性:「犬」は特定の犬や特定の瞬間の犬でなく、時空間に限定されない意味を持つ。
時空間に広がる意味とは何か? 時空を超えた存在者(イデア、普遍):プラトン・教会、個人的認識(観念、イメージ):ロック・ヒュームが候補者。ともに、存在が確認できないのが問題。

規範性 実証的心理主義・科学主義批判
言語には、事実そうなっている・そういう傾向があるという事実というだけでなく、それに従うべきルールという規範性の側面がある。
たとえば、「犬」という文字列が犬を意味するのは、日本語のルールとして一度決めたのでそうしなければならないという日本語を使う人たちの従っているルール。「犬」と犬を関係づけているのは、因果的なつながりでも、現実の犬や特定のイメージが記号に共起するというような観察される関係ではない。ルールという社会的強制力。経験的に確認(実験、観察などによる実証)されることではない。
また、言語の持つ論理にも人は従わなければならない。ある人が「うそつきである」なら、言葉の意味によって論理的に、その人は「正直者ではない」ことになる。これは、何か原因によって生じる現象で観察や実験によって解明されることはなく、ルールによって必然的・論理的にそうなる。

言語の時代 言語論的展開(20C) 
人間の知は、かつては観念として人の心の中にしまいこまれていると考えられてきた。だから、科学者や学者、そして学生は、情報を所有するといういみでたくさんの観念を蓄え、博識であること、あるいは博識になることが求められた。しかし、観念自体は他人には見えないし、観念がそれぞれの人が心に抱くイメージのようなものだとしたら、その知の論理構造は判然としない。現代は知の媒体としては観念よりも言語が信頼されている。インターネット時代は、言語的な知はいつでもどこでも参照できるようになったので、学者や学習者は言語(で表現される情報)の所有ではなく、言語(で表現されている)の活用や編集の力を持つことが求められる。

2言語の力の源泉は?
観念か行動か 逆転スペクトル
言語の意味は心に浮かぶイメージ(心の像)ではなさそうだ。「赤」に対して特定の赤の観念を持つことが、「赤」という言語記号の理解なのだろうか? 「逆転スペクトル」は、人によって感覚質(感覚の体験内容)が逆転しまっている(たとえば、AさんとBさんで青体験と赤体験が入れ替わる)想定だが、(3色なら3色といった)パターン・形式さえ共通していたら問題は生じない。それどころか、同じパターンの色体験が存在しなくても、「信号が赤ですよ!」などの言語は通じるのではないか。
イメージや観念が一枚の絵のようなものだとしても、その絵が喜びを表現しているか悲しみを表現しているか解釈が可能なように、意味は固定されない。また「痛い!」「ありがとう!」のような言語表現にどのような絵が思い浮かべればよいのか? 
将棋の駒「王将」で何を思い浮かべようとも、将棋のルールに従って正しくその駒を使用(ゲーム)できれば「王将」の意味が分かっていると言えるのではないか。それなら「ありがとう!」「痛い!」「赤」も同じで、それに適切に反応できるかどうか、適切な文脈(状況)で適切にそれを使える(言語ゲームをプレイできる)かが、それらの言葉の意味を分かっているということになるのではないか。
だから、魂がないゆえ定義上観念を持たないと思われるゾンビでも、「それをくれ!」「殺してやる~」などと登場人物を的確におびえさせることができるなら、言語ゲームを遂行しているのであり、それは言語は意味を持っているのだ。

個人か社会か 私的言語 公共化
自分一人だけの言語を発明した! 場合はどうか。自分だけの特定の体験、心の像が生じた場合に「E」という記号を記録する(ウィトゲンシュタインの「感覚日記」「私的言語」)。この「E」について、自分だけが意味の分かる自分専用の言語と言えるだろうか?
「E」は、言語ゲームに属さない。自分だけの特定の体験は他人には伝わらない。

言語ゲームの立場では、自分だけの内面的体験、心の像などは必要ない。では問題は、「E」で自分だけの言語ゲームができるかどうかだ。できるなら、自分一人の言語というのが存在することになる。
ここで、もし個人的な内面の体験を意味しているので、「いや、あなたには分からないだろうが今は「E」なのだ」と返す場合はどうか? 周りの人間はそれにどう対応したらよいのか分からないから、「E」は社会の言語ゲームには属さない。だが、自分だけの言語ゲームにできるだろうか? 私が社会と共有する言語ゲームと切り離された「E」は、私にとっても特定の表現できるパターンを持たない。つまり、私さえもそれを訂正したりできないことになる。ということは、私さえもそれを的確に使用することができない。言語は個人的ではなく社会的である。
「E」と発話と共起して、喜んだ後で沈んだ様子、あるいは「E」に対してお茶を持っていくと落ち着くという特定のパターンが見出されたとしよう。この場合、他人が「今は「E」じゃないだろう」などと私を訂正するようになるだろう。つまり「急に落ち込む」とか「お茶が欲しい」という、社会で認められる言語ゲームのプレイの一つにすぎず、「E」は私専用言語ではなくなる。

規約(慣習)か自然か 規則のパラドクス 実践の一致
言語は社会的なゲームの中でそのゲームの規則に従ってプレイされるなら意味をもつ。たとえば、ルールとは、語の定義であり構文規則であり、使用状況についての社会的常識などである。そう考えると分かりやすい。将棋盤の中でゲームに関係するからこそ、「王将」「歩」などはその意味を持つのであり、もし関係ないたとえば「牛」のような駒があったとしても無視されるだけだろう。ウィトゲンシュタインはこういったゲームに関与しない言語的記号のことを「空転する歯車」と呼んだりする。まあ「盲腸」みたいなものだ。
しかし、ウィトゲンシュタインは、自分のこのアイデアもさらに疑っていく。「ルールに従う」とは何か?
「+1」は「+」のルールに従って行われるはずだが、1000までは、「…997,998,999,1000」と続けてきた子供が「1002,1004,1006,…」と続け出す場合を考えよう。この子供が「+」をそのように、たとえば1000からはわれわれの記号法なら「+(X×2)」と書くべき理解で作業をしてきた場合だ。問題は、この子供が1000まではルールに従っていたのかどうかだ。もし、誰もそれをその時には答えられないというのなら、どう考えるか? クリプキという哲学者は、プレイがプレイだったかどうかは事後的に判定されるのであり、いつだってプレイは暗闇の中で跳躍するようなものだ、と言う。ただ、そもそも事後的に判定できるのかどうか、何を判定するべきなのかは、考えてみるとけっこう難しい。ウィトゲンシュタインは、人間社会に行動の一致が広く見られるその原因を生活パターンの類似に見ているようにも読める。ただ、ほんとうに広く一致しているのか、そう思っているだけなのかは、誰にも分からないはずだ。
人間が言語を使うということは、そういう不気味な暗闇に触れつつ生きるということであり、それは興味深いことである。

文献紹介:ウィトゲンシュタイン関連の図書・作品
 『哲学の謎』、野矢茂樹講談社(新書)、1996年
意味の一般性、意味理解、他者について明瞭な問題提示
 『哲学ってどんなこと?』トマス・ネーゲル(岡本・若松訳)、昭和堂、1987=1993
「コウモリであるとはどのようなことか?」から他者問題、規則問題を論じた哲学者
 『分析哲学講義』青山拓央、筑摩書房(新書)、2012年
現代英米哲学(分析哲学)を意味と意味の社会化として要約
 『ウィトゲンシュタイン入門』永井均筑摩書房(新書)、1995年
<私>の哲学者による哲学の解説 「私的言語論」「規則のパラドクス」も紹介
 『これからのウィトゲンシュタイン -刷新と応用のための14 篇』荒畑・山田・古田編著、リベルタス出版、2016年(中・上級者向け)
ウィトゲンシュタイン哲学の最新の読解と展開を解説・検討。私も寄稿しました。
 『ウィトゲンシュタイン』(映画)、デレク・ジャーマン、1993年、イギリス
ウィトゲンシュタインの特異な哲学的課題を個人的苦悩に引きつけた伝記的作品