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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

実感が先か概念が先か 4

そこで、こう言う。
やっぱり概念からでなく、説明枠組みから出なく、自分の生きた実感から出発しなきゃ、と。
だが、ここで先のパラドックス
果たして、概念に先立って「生きた実感」なるものがあるのだろうか?

しばしば、ごく一部の天才的な芸術家や学者だけが、そのような生きた新しい実感を持つことができ、人類に新しい概念をもたらしたのだ、と説明されてきた。

だが、この説明は人類や学問世界を外から見て説明するなら一定の説得力をもつものの、私の疑問に対する答えにはなっていない。
私の問題設定は、天才でもない誰もが相互に理解し合えるはずで、理解し合えなければならず、その経路があるはずだというものだ。
また、天才的な仕事とされるものでも、突然になんの脈絡もなく生み出されたアイデアではなく、実は時代的な文脈だとか、数学的な整合性の問題であるとか、特殊な信念に影響されていたり、概念枠組みが先行して形成された観方というものは多いと言われる。

現時点での仮の答えとしてひとまず次のような案を提示しておこう。
ひとは、まずほかの概念を利用して新しい概念を得る。
つまり形式的に定義を得る。
ついで、それに合致する実感を自分の多様な経験のあるアスペクトとして探す。
そして、当初に得ていた概念にふさわしい実感を、これがその概念だったか、と納得して理解する。
こうして、暗黙的にというより潜在的に自分の中にあった理解を、形式的な装置(概念)を利用しつつ、顕在化、形式化する。
これがある概念の理解を形成する。

ひとはまず、「愛」とは何かを言葉で学ぶ。
おそらく両親が「愛」ということばを使って話しかけた多くの談話があり、たまには説明があり、そこらく「愛」というからには「快」をもたらすものであろうか、云々、と見当をつける。
そして、経験を重ねる中でそこに「愛」のアスペクトを探し続け、いつしか愛の実感をそれとしてまとめあげる。

やや静的に説明したが、もちろんこのプロセスはダイナミックに、プロセスとしてあり、概念の理解はスパイラル状に形成され続けていく。

教科書で習う→実際にそうだと知る→理解する、繰り返し、というわけだ。
だが、私はこの案になぜか納得し切れていない。
コミュニケーションとか「分かる」とか、そんなトップダウンモデルで説明していいのか??
でもまあ一応、そういうことにしておくか。