blog2735

Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

実感が先か概念が先か 3

愛の話はやめてこうしてもよい。
人は「ガバナンス」を理解することもその概念を理解することもできない。
人はフェアーである、正義に則る、信頼に応える、ということもその概念も理解することができない。

「くだらない、理解してるじゃないか」、という人は、たぶん自分の思いを人に伝えようと苦しんだことがない人であろう。
少なくとも恋人同士の間では、また親子の間では、そして教員と学生の間では、伝え共有しなければならないことがあって、しかもそれはしばしば上に描いたような循環的排除の構造に直面し、どこへも進めなくなってしまうものだ。

哲学者の中の哲学者カントはこう言った。
「直感なき概念はむなしく、概念なき直感は盲目である。」
私はカントに聞きたい。
「そもそもむなしい直感や盲目な概念というのは理解を構成するのですか? 」と。

先に進もう。
われわれは、確かに多々苦労することはあるものの、ある程度はなんとか理解しあって関係をつくり、社会をつくり、生活をつくっている。
としたら、上のパラドックスは完全にロジカルに閉じてしまっているわけではなく、どこかにちゃんと通過可能なパスがあって、ひとはそこを通って先に進んでいたのだ。

問題は、このパスがどこにどのようなものとしてあって、またどのようにそこにたどり着き、そしてそこを歩けばよいのだろうか?
これは、ロジカルな問題の空間上のルート探しであり、また人と人との間をつなぐ相互理解の細い経路を探すプロジェクトでもある。

この話題は、学問的な創造力の問題にも通じる。
たとえば、今の社会をこう見るとする。
本質的に資本主義、商品経済によって動いている社会である。
すると、社会のあるアスペクトが非常によく見えてくる。
ただ個人的に楽しいと思っていた自分の週末のドライブが、実は資本主義の論理にがっちりと組み込まれ、資本の運動の歯車に過ぎないものだったとはっきりと理解できたりする。
だが、そういう見方に固まってしまったら、もうそこからできる議論は限られてしまうのではないか?
これは社会科学だけでなく、自然科学でも、人文科学でも、工学でも医学でも、どのような学問でも非常に非常によく見られる現象である。
学問は宿命的に硬直化する。