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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

マトリックス-3

疲れてきた。適当に〆とこう。

われわれが世界の外を直接感じられないことはこの問題設定の前提だ。だから、「感じる」は世界を透かして「外部」を感じるのではない。
私が思うに、「感じる」としたら、世界の「作為性」であろう。しばしば、自然の合目的性からひとびとは創造主としての「神」の存在を感じてきた。そして、これが「美」を感じる感性の力だとする議論がある。
デカルト、カントという近代哲学のメインストリームの思考にあって、しかも現代の分析的哲学ではなんとも取り扱いにくい議論。それが、「感じる」の一言で片付けられる映画はいいなー、とふと思ったりするが、もうちょい手がかりを探してみよう。

絵を見る→作家を感じる。ミレーの「晩鐘」を見て癒され、ゴッホの「麦畑」を見て戦慄する。ロートレックを見て楽しい気持ちになる。作家の気持ちが、仮に実際とずれているにしても、私には「感じ」られるのだ。ゲームも没頭すると、いつしかクリエーターたちの存在を「感じる」ようになるのだろうか?


表現は、テクストは、すでに作者の手を離れている。私が大学生のころ文学部では「作者の死」がしばしば語られ、私も蛮勇を持って、気軽に、解釈の自由、高校「国語」的牢獄からの解放?を喜んだものだ。
だが、事態はそう簡単にはいかない。作者はテキストによみがえるし、神は世界に感じられる。
私がこの作品をいみあるものとして楽しんでいること、それが私に「作家」を感じさせ、私が生きてるってことが、私がこの世界の主としての「神」とでも名づけたくなるような何かの「感じ」を呼び起こす。

ウィトゲンシュタインは、若き日、これを「奇跡」と呼んだ。私ならなんと呼ぼう。さしあたり、こうしていま私の意識のあること、それでいい。
現象学チックだが、意識のある私の意識内容でなく、意識の枠組みにかかわるレベルで、私は私の意識についてなんらかの作為性を感じる能力がある。そう仮定してしまいたい。そうしたら、私は世界の作為性に気づきうる、そして、「真実」の存在を求め、「マトリックス」と戦う気にもなれるかもしれない。だが、この仮定はあまりにも都合がよすぎる。

まずは、「超越論的要請」ってことにしとこうか。つまりそうでなきゃ困る、そうだったらいいなー、ということ。すっきりせんなー。しかし、わからん以上、仕方ない。ペンディングだ。