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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

「倫理と現実」3

さらに書きます。

考えたい問いは、「善い悪いを意識せずに善い行為とみなされる行為をなすことは善い行為なのか」です。つまり、イメージとしては、すごく「無垢な」人がいて、その人はあれこれ悩まなくても、自然に、善いことばかりする、そんな天使のような人です。

こんな天使は漫画や小説、宗教的イメージの世界の住人でしかないかもしれませんが、本当に善い人は、善い悪いをあれこれ考える人間ではないという感覚はどこかにあります。善い悪いをあれこれ考える専門家である倫理学者に倫理的な人はいないという事実?も、この感覚を支援します。

としたら、倫理的現実をそれとして意識することは、倫理学はともかく、倫理にとって本当に必要なことのだろうか?
野生の獣たちは、善い悪いもなく、ただ生きているように思われます。
でも、人間はそうではなく、あれこれ思い悩む生き物のようです。

人間も「人間本性」なるものに忠実に生きればそれはすなわち「正しい」のではないでしょうか? いわゆる性善説はそう考えるでしょう。悩むのは、社会がゆがんでいるからだ。それが一つの回答でしょう。この場合、理想状態を考えると、人は何も悩まずに行為し、それがすなわち常に正しいという状態ということになろうかと思います。

このビジョンは私の直感に反します。あれこれ悩むなかで判断して行為するからこそ、その行為が正しければ価値があり、間違っていればその行為はとがめられる、そう思います。性悪説なのかな? カントの「自律」を基調とした倫理観と重なるようにも思います。「無垢」に社会規範に一致する人は、実はたまたまラッキーだった人でしかなく、倫理的な人、倫理的に評価されるべき人ではなかったのではないでしょうか。

私が言いたいのは実は次の一点です。倫理には倫理的自己意識が重要だということ。あれこれ悩むのは、自分や自分の世界が善いか悪いかを思い煩うからです。この思いは、コミットメント、得に、自分や世界を「つくる」という態度と連動していると思います。この態度なしに、あれこれ思い悩む必要はないでしょうから。

いろいろ考えましたが、私は「倫理にとっての現実」をこのような自分と世界との関わりに求める方向でいきます。