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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

「倫理と現実」2

フロアから提題者に出された質問やコメントには、「現実」というのはわれわれに「迫り来る」もので、例えば否応なくわれわれを脅かす隣国のミサイルとか、街と秩序を突如破壊する大地震とか、そういうものだ。そこで倫理は何ができる!? そういうものが多かった。

「迫り来る」。社会的に大げさに取り上げられることばかりが「現実」だとは思えないが、例えば毎年すこしずつ老いていくとか、子どもをつくる年齢になるとか、そんなのも「迫り来る」現実かもしれない。そう考えると、「迫り来る倫理的現実」って、かなり幅広く受け取れることになります。

一つの問題は、「倫理的現実」が「迫り来てる」と感じないひと、ことがあるということです。それ自体、一つの倫理的現実ですが、それを感じないひとには、たぶん倫理的現実も倫理も存在しないものです。

「こころ」を脳の中のゴーストとみる意見がありますが、倫理も見えない人には見えない蜃気楼のようなものなのでしょうか?
倫理を感じなくても、「正しく」「善く」振舞うことはできるでしょう。例えば、そうすれば賞賛され、それが得になると分かっていてそうする場合。法が、たんなる相互利益のための取り決めとみなされる場合。

たぶん、この論点は「功利主義」的な倫理観の是非にからんできます。功利主義は「倫理的現実」を扱っているのか、それとも経済学的現実とも大きく重なると思われる「欲求的現実」というプラットフォーム上で作動するシステムなのか。

「迫り来る」と言うけれど、実は何が迫り来てるのかについて、人によってかなり違う受け取り方をしている可能性があるようです。私にとって、倫理の現実とは倫理がそこから起動する場所であり、それが人によって異なっていたり、人によっては感じられないってことが大きな問題だと感じるのです。

ソクラテスが『弁明』で問題にしたのはたぶんここのところだったと私は考えます。
今回の学会のシンポジウムでは。私としてはもうすこしこのあたりの掘り下げを期待していたが、やや方向ずれであったようだ。