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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

あさき・・

あさきゆめみし』の宇治十帖。はじめて読んだ。・・「浮舟」が俗世から身を引く決意にいたるところがいまひとつ納得できない。ここの心理過程こそがこの話の核心なのに。

「好きな二人の間で身が引き裂かれるー」とか悩みつつ、結局は「二人とも本当には私に向かい合って愛してはいなかったんだわ」だよ。矛盾してない? あ、矛盾はないか。でも二人は×としても、少なくともまだ「本当の」愛を求めている以上、俗世にとどまるべき理由があるのでは? 俗世では、偽りの愛しか得られないって設定なのかなぁ。

『源氏』のたいていのキャラクターは、男も女も複数の相手を愛してしゃあしゃあしているものだ。だが浮舟は違う。「ながらへば必ず憂きこと見ぬべき身の、なくならむは、何か惜しかるべき。」(『玉上本』)だ。このあたりのくだりは天才紫式部の怒涛の筆を追うなら、読む者は一気に急流を滝壷へと導かれ、奇妙な爽快感さえ感じるところ。ぜひ一読を。

ところで、倫理的観点からみるなら、あるいみ自殺ってのは周りを欺きつづけ、悲しむ人も自分の苦しみほどじゃないだろうとか自己正当化していくプロセスなのだ。あるいみ、究極のエゴイズムだ。『あさき』はともかく、原文ではそんな恐ろしい感情のロジックのうねりのようなものを感じた。紫式部も浮舟を批判的に見てるところもある気がした。他方、『あさき』では定説どおり(?)悲劇のヒロイン解釈だ。

浮舟の淡白さは大君の物語の変奏としてはたしかに不自然ではないし、紫式部自身の浄土思想の表現としてもわかる。光源氏のあるいみ救いのない一生に対するレクイエムとも見れるかもしれない。

『源氏』全体としてはいいのだが、浮舟個人の人格としてはどうなのか。やっぱり破綻してないだろうか? 『源氏』を一種の小説として読む私の読みが見当違いなのか、何か読みきれてないラインがあるのか。気になるね。

まあ、授業の用意があるので、「もの思い」はこれぐらいにして「労働」に励むことにしよう。

・・次の授業は、、マルクスレーニンの思想の紹介だ! 『源氏』から『共産党宣言』へ。このギャップには、浮舟なら大分裂でナイアガラに身投げするね。

浮舟だって恋愛革命を起こして、愛の独裁者になって、二人を支配して、計画恋愛とか裏切り者の粛清とかを実施すればよかったのだ。マルクスたちだったらきっとこう助言したに違いない。

それにしても現代って殺伐とした時代だなー。