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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

基地のある町

浜松には航空自衛隊の基地がある。よく訓練の爆音が響いてくるし、通勤途中で目の前をE-767かな、巨大な警戒機が横切ることもある。

僕の中で自衛隊は、なぜか「辺境」のイメージがある。十勝の雪の原野、樹林の広がる富士山の裾野、日本海の深い入り江の内奥、さんご礁の沖縄。三沢は見たことがないけれど。浜松は、厚木や横須賀と同様、それほどの辺境でもないはずなのに、やはりそう感じるのだ。

Simon & GarfunkelのCDを聴きながら飛行場の脇の道を走っているとき、僕はことにそのような感情に満たされる。

ふと、思った。そろそろ自衛隊がいるということがどういうことなのか自分の中でしっかり押さえたいと。
この町に赴任したときから気にはなっていたが、後まわしにしてきた。

なにごとにも歴史的経緯、経済的、政治的意味があり、それなりの理念や正当化があり、規制がある。技術的背景や、気候風土などの自然条件も見落とせない。学問によって、そういうものの見かたを身につけることができる。
それは、自分がこの社会で生きるためにも、社会を作る上でも、力になるもので、適切な判断力と合わせて、世間では「見識」という。

だがいまの僕は、自衛隊に対する見識を求めているのではない。自分が、自衛隊をどう感じているのか、自衛隊のいる町に住むということをどう受け止めているのか、それを知りたい。

戦闘機は強力な兵器だ。製造にも運用にも莫大な費用がかかり、またその費用に応じた巨大な戦力を持っている。
非日常が日常的に存在する違和感だろうか。あるいは恐れ?

自衛隊は強力な国家防衛の拠点であり、それがこの町の中にでーんと居座っていることは、東京や名古屋、関西に対するこの街の位置づけを表している。隠蔽されようもない支配構造への思いだろうか。

戦時中、この町は、軍需産業の拠点として徹底的に攻撃されたらしい。しかし、この町は、その原因たる軍事施設を平然と(?)受け入れている。もどかしさ、やりきれなさ、だろうか。

これは一種の愛なのか、恐れなのか、郷愁のようなものか。
基地を見て切なさを感じるのは、あるいみ詩的だが。ちょっと妙な。

・・まだ言葉になりそうにない。