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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

「哲学の辺境」 オリエントのオリエンタリスト

僕は、浜松のことを心の中で「哲学の辺境」と呼んでいた。
なぜなら、この町では哲学的な思いは意識されにくいように感じていたから。

浜松には「谷島屋」という大きな本屋がある。サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)を購入しようと思って、シトロの谷島屋と市野の谷島屋をみて回った。置いてない。。見かけはしっかりした大きな書店なんだけどなー。

「サイードの『オリエンタリズム』ありませんか?」「は? サイー?」「調べてみましょう。」・・・検索・・・。「ないみたいですね。注文しますか?」

そのとき、言えなかったこと。「え? まさかー! ないわけないよね。古典だよ。え? 知らない? 谷島屋の店員が? 困ったな。 で、ないの? うーむ。それでいいの!?」

理不尽を、ちょっとばかり目で訴えてみた。でも、「人のよさそうな」店員さんは「ホントに知らないらしい」し、それの何が問題だかも「思いもつかないみたい」だ。これ以上こだわっても効果は決して上がらないだろう。ただの困った客になるだけだ。撤退。

「関西だと」、客が置いてあるよねと思う本を知らなかったり置いてなかったら、「申し訳ないですねー」というのが「基本」スタンス。ましてや客に馬鹿にされてたら本屋の意味がない。

「いいかい? 客の言った本を鸚鵡返しに検索して、在庫がなかったら注文するぐらい、機械でも幼稚園児でもできるんじゃないか? あなたはプロでしょう?」
このほとんど自明のロジックが理解されない。そういう文脈がない! 言いたいけどもの言えぬサバルタン。それは私の方か。

「ありえない。」そういうことがここでは当たり前。大学の近くに古本屋もないんだから。

そうか! ここは哲学の辺境なのだ。そう言って、ここに書いて、理解してもらえる「文化」に訴えることで、サバルタン返し。


僕は確かにオリエンタリストだけど、この町に住み、自らこの町の人間たろうとしている。すでにして、コミットメントが生まれてきている。オリエンタリズムをここで振りかざしても何も変わらないことも知っている。浜松を京都にしたいわけでもないし。でもサバルタンでいるつもりはない。

西洋の学問に学んだ日本の人文社会系の思考は一般にこの苦境を引き受けなければならない。いや、「学問」自体が、もの言わぬ「非学問」の中で生きる営みなのだ。

それはそれとして、まずは「谷島屋」。どうアプローチしたらいいんだろう?