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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

謹賀新年 時の流れに身を任せ

今年もよろしく。
ここには日々の思いつきや感想、批評めいたことしか書いていないけれど、それはそれで自分の考えを整理するきっかけにはなっているようです。
ときどき見てくれてる学生や遠くの友人がいるようなので、今年もあれこれ書いていこうと思っています。

年末に自動車で帰省して、はじめて帰省ラッシュなるものを体験した。私は、毎年下宿で仕事してるか、ありは山やスキーに行っているかで、まともに帰省して地元で年を越したことがあまりない。いつもニュースで他人事のように見ていた。だが大阪ナンバーがぎっしり並んだこの年末の名阪では、めずらしく雪が降りしきり、夜も更けるにつれて年末気分もひとしおであった。

年末年始は、妙に「日本」を感じる。正月のお休みがある。年賀状書きにはじまって、大掃除、紅白歌合戦。年越しそば。除夜の鐘。初詣。ご挨拶。云々。
やっぱりこうでなきゃ、という感覚はとてもよくわかる。
帰省ラッシュに巻き込まれながら、私には妙な安心感さえあった(もちろん、クルマというテクノロジーの力も大きいのですが)。

それはとても無批判で強いナショナリズムだなと思う。
もちろんそれだけを取り上げて善し悪しを論じることではないだろう。
ただ、どうして「日本」ってのをこんなに感じるのか、歴史的にみてどうなのか、他の文化ではどうなのか、ふと疑問に思った。
もっとも、日本の他の皆さんはどう感じているのだろう?
正月に「日本」をやたらに感じるのは私だけ、帰省ラッシュに巻き込まれて妙な安心感に満ち足りてるのは私だけってこともありうるね。

哲学の観点からすると、これは「時間」のガバナンスであり、それは人間社会にとって重要な課題なのだと思う。(なんでかな?)
別に1月5日を正月と決めてもよかったのだ。事実、旧暦では今の2月ごろが正月だ。
その課題を「日本」が仕切るってことにどんな意味があるのだろう。
そこに身を任せて年を越し、「気持ち新たに」新年を迎えるってことにどんな意味があるのだろう。

社会の時間の流れに身を任せながらも、ふとそんな狭い日本の上で、永遠に瞬いている夜空の星を見上げてみるのであった。