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品と粋 自動車テクノロジー

自動車ってテクノロジーはなんだか下品な気がする。

日本では、たくさんの人が自動車を利用し、たくさんの人が自動車産業に関わっているので言いにくい命題ではあるが(だけど私はそう思ってきた)。ただ、私自身も自動車に乗るようになり、またそのテクノロジーのすばらしさも体感してもいるから、むしろすこしは言いやすくなった。

「下品」と言うのは、自動車というものは歩行者から見れば、すさまじい騒音と嫌な排気ガス、まぶしいライト、そして事故の危険などなどを撒き散らし、撒き散らしている本人はそ知らぬ顔で、比較的安全、快適な空間で自分の好きな場所から場所へと移動しているのだから。もし懐中電灯で人の顔を照らすことが下品だとしたら、自動車は夜の町では基本的には下品なテクノロジーだと言える。もちろん、運転の仕方でも程度はかなり異なるし、迷惑かどうかは、受け取る人の気持ちや文化でも差が出てくるだろうが。

私は「上品」を、知らない人であれ相手の人間性を尊重して振舞うこと、と定義しているらしい。だから見知らぬ人に嫌な思いをさせて平気でいる自動車というテクノロジーを下品だと思ったのだ。こうして「品」をリベラリズム的な規範と考える。独立した個人が、自己と他者を独立した人間として同様に人間性を尊重するところに不羈の「品位」を感じるのだ。

これに対するなら、「粋-無粋」はコミュニタリズム的な規範ではなかろうか。個人よりもむしろ「場」が重視される。「場」の空気・ルールを理解し、それを尊重しつつ、その中で評価される表現を選ぶ。それが、新たな評価とルールを作り出す。私は「粋」を、「品」に対して、協調ベースでこう解釈したい。

「品」は文化を超えた要素をもつが、「粋」は文化の中にとどまり文化を育てる。九鬼周造は『「いき」の構造』で、「粋」を分析しているが、私の解釈ではそれは倫理や美学ではなく、優れた日本文化論ということになる。

ある種の自動車や運転は、下品だけど粋だったりする。逆に、ある種の尊い行為は逆に、上品だが無粋だったりする。粋かどうかはコミュニティーが自由に(たぶん粋なリーダーたちの指導で)選択するべきことだが、品があるないかは倫理の問題がからむと考える。

うん。技術や社会を倫理で切るための切り口としてはややしっくりしてきてる気がするが。どうだろう。