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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

アーレントとジェイコブズ

教員同士の研究会でアーレント『人間の条件』(前半)の研究会があって、たいへん刺激を受けたので、忘れないうちに書いておこう。

アーレント古代ギリシャにおいて、公的領域と私的領域がはっきり区別されていたと想定する。そして、ここからは次回の研究会の話題だが、近代とは、その区別が混同され、本来私的な領域で現れるべき生命的なものが公的組織として実現される「社会」(国民国家、国民経済)のようなものが勃興してくる時代として捉えられる。
・公的領域(政治、言論、自由、etc.の領域)
・私的領域(家族、経済、生産、労働、etc.の領域)

ここで思い出されるのが、ジェイコブズの『市場の倫理 統治の倫理』であり、この本でも古代ギリシャの思想家プラトンをベースに、「統治の倫理」と「市場の倫理」という二種類の規範体系が立てられ、これの混同こそが世の悪徳の根源であると論じられる。
・統治の倫理(伝統、名誉、忠実、勇敢、余暇、etc.)
・市場の倫理(平和、取引、競争、快適、新奇、勤勉、etc.)

二人の現代の女性思想家に共通して見られるのは、政治と経済の分離の思想をギリシャに見て、その正当性を十分に評価したうえで、その観点から現代社会を批判的に分析する点である。ジェイコブズのほうは、現代のアメリカや日本における政府や企業の不祥事と市民生活と市民運動などが浮かび上がってくるのに対して、アーレントのほうは、帝国主義的な権力のあり方からさらには生と死と永遠についての形而上学的次元が透けて感じられてくる。両方とも、今まで私が読むことのなかったタイプの名著だと思った。

思想のための思想、論文のための論文ではなく、ここにはちゃんとした具体的な問題と具体的な思想があり、言論がその書き手の人生となっている。それは本来当然のことだろうが、簡単なことではない。

わたし自身は「専門性を尊重したガバナンス」をキーワードに社会とその中における人間を考えようとしているが、上の二冊はその視点や方法そして精神において、たいへん有益なてがかりになるような気がする。

分けること、そして、つなげること。倫理をこの世界で実現するってことは、そういうことかもしれない。社会においてであれ、人間においてであれ、カオスを避けること、なあなあになってしまわないこと、わきまえること、制御すること。それでいて、全体的なビジョンを失わないこと。