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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

3-10 命のガバナンス ガバナンスの命

がまん神殿で、vanyaさんは22日づけの「3-10 感想」に対する批判的エントリを書いてくれました。強めに打ち返してみます。

まずリアリティ(実感という程度のいみ?)のない問題設定に対しては、リアリティのある判断はできない、とのコメントには同意します。「超越的視点」に注意が必要という点もその通りで、社会ではいかにリアリティを持たずに特権的な場所から暴力が行なわれてきたことか。絶対君主が気晴らしに戦争をはじめ、実情を知らない政治家とお役人が庶民の運命を決めていくわけです。

ただ、だからこそ、「本当に生死がかかっている時に「意思決定」だの「合意形成」だのが成り立つとは考えにくい」「我先に生存を願うか、絶望して命を絶つか、とにかく無秩序な状態に陥る」という思考のラインには大きな疑問を感じます。
 
ガバナンスは、われわれの日々の命のためにこそあると考えるからです。公的年金の制度を一つ決めることで、自分たちの社会のどの層を救い、どの層を切り捨てるのかが決まったりします。ホームレスの運命、住民の運命、学生の運命。ガバナンスはお遊びではありません。ガバナンスがお遊びなのは、一部の特権的な地位にある○○だけにとってのことでしょう。

ガバナンスは、命への暴力に対してもできるだけ言論で対抗しようとする態度を含むはずです。「話せばわかる!」。・・無力なことも多いでしょうが、命ほどに大事なことについては、正当に合意に参加したい、自分たちで自分のことを決めたいのではないですか? それは確かにキツいことですが。

ガバナンスというのは、待ってて降ってくるものではなく、自ら獲得して守り育てなければ枯れてしまう生命のようなものだと思います。

意思と理性で命に向かい合ってる例を考えてください。末期患者は、医者や家族と相談しつつ、自分の死を考え、選択していきます。たしかに、狂乱してしまうケースもあるでしょう。ですが、そこで狂乱したり、すべて医者や国家にお任せではなく、大切な意思決定を自分たちの手に、正当な形で取り戻そうというのが「ガバナンス」の命でしょう。

実際には、ごく日常的な状況でさえ、人は、私は、ただ乗りしたり、暴力をふるってしまったり、逆に暴力に従わされたりします。ここで、だからこそ「ガバナンス論」があるんじゃないか、と言いたい。