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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

3-10 つづいて

受講者を外から評価するだけでなく、私もまた「私だったら」を考えてみよう。
私は、ともかく権限のある人から、3-10において「決定せよ」と命じられた。そこで「決定(参加)者としての私」の採るべき、採りたい行動を考える。

私が 銑のうちの誰でもないとする。この場合、仮にすでに私が別枠で生き残れることが確定していたとしても、当事者の委任を受けない限り、基本的には決定に参加する権利はないと考える。参加する権利(あるいは義務)が生じるのは、私が自らの席も供出して11人目のゲーム参加者となる場合であろう。もちろん、できればこんなゲームの参加者にはなりたくないが。その判断についての材料はまったく与えられていないので、現時点では何とも言えない。

他方、私が 銑のうちの一人であったとしたら、時間等に余裕があるなら、選出方針や方法、各自の条件や希望について、順に意見を出し、合意を目指すことを提案する。合意に失敗した場合、あるいは時間等の余裕のない場合は、決定できずに全滅することや暴力による解決を避けるために、「くじ引き」による決定を提案してみる。

理由は、以上を当事者による賛同の得られるだろう合理的解決と考えるからであり、仮に予想に反して合意が得られなかったとしたら、合意が得られるよう説得を続け、賛同者を増やす努力をする。暴力に訴える者には、共同して抵抗を試みる。

以上は理想かもしれない。だが、実際に、これ以外の方法がよりよい結果を生むとは考えがたい気もする。ともかく課題は、実際に私の採る「だろう」行動ではなく、採る「べき」行動を問うていると思われる。

ところで、現実の多くの社会で「イケニエ」は存在する。そこでは「皆のためにガマンしてくれ。で、誰が?」となる。

猫の首に鈴をつけるのは誰? ゲットーでアウシュビッツに送り出す人を決めなきゃならない。ごみを片付けるのは誰? 誰かが恥をかかなきゃならない。誰かがいじめられっこ役にならなきゃならない。

世の中、古今東西、子供社会も大人社会も、公でも私でも、そんなことであふれている。たぶん、そこで自分が何者であるかが問われる。また、自分が何者であれるか、何者でありたいのか。そう考えると重い。

重すぎるテーマ故、「内容について抵抗感ある人は、云々」というただし書きがあったのだろう。