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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

匿名の必要性 2

三丁目さんは以下のような指摘をしています。
http://ameblo.jp/3choume-no-neko/entry-10032060748.html

「『やりたいことがあるのに、伝えたいことがあるのに、他人の目が気になって行動できない』そんな人のために匿名性はあるんだ、って思ったの。決して責任放棄のためじゃない。こういう人達を保護するためにあるんだよ。」

これは、公共的な意義のための匿名を指摘する、いい意見だと思います。例えば「ホイッスル・ブローイング」(内部告発)で、社会を危険に陥れるような組織の不正が明るみに出たりします。
(cf.『内部告発公益通報―会社のためか、社会のためか 』櫻井、中公新書)これなど、仲間の秘密を暴露してしまうわけだから、匿名じゃないとつらいですよね。顕名で告発されてそれを正当に評価できる組織ならそんな犯罪に手を染めたりしないでしょうしね。その意味で、社会的意義から匿名の発言が認められていると言えそうです。

ペンネームの例も合わせて考えるなら、個人の人権としてのプライバシーを保護するためという場合と、公共的な意義のある場合の両方の理由から、伝統的にも匿名が認められていたように思います。

ただ正論としては、匿名でなくても正しいことが言えて、正しく評価される社会を目指すべきでしょうね。目立つのが恥ずかしくて正しいことができない文化では、お年よりはいつまでたってもなかなか席を譲ってもらえないままじゃないでしょうか。

明治生まれの私の祖父は、90歳も越えたころから、自分から若者の座っている席に近づき、のうのうと座り続ける若者を「ほれほれ」と自信満々でどかせて自分が座っていました。一緒にいた私は恥ずかしくていたたまれない気がしましたが、譲らない若者はもちろん、座りたいのに遠慮して無理して立っている老人よりも、じいさんが正しかったようにも思います。

匿名の話に戻ると、やはり言葉は、どのような立場の他でどのようなことを言ってきた誰の言葉なのか、ということと切り離しては正当に受け止めることは難しいと思います。私の学生時代、文学部ではテクストにおける「作者の死」「解釈の自由」が当たり前のように流行していましたが、その議論は私にはやっぱりおかしいような気がします。この点、私は基本的には保守派のようです。