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公共性を支える感情

台風が接近している夜、なぜか心がざわめいてよく眠れなかった。

窓の外で激しく降る雨に、親しい人びと、どこかで一度会っただけのひと、町の人びと、次々に思い出される。どこかで自分の家を持たない人も、かろうじて雨風を避けているかもしれない。

「ハード・レイン」のボブ・ディランや、また星空を見上げるカントにも類似の感情を感じるのだが、それは存在することの本質的な平等性、共同性と公共性の一致を思わせる。

私は、確かに台風によって共同体的な同胞意識を喚起されたのだが、それは私の想像力の限界まで広がってゆき、これを私の主観から観るなら、そこには特に閉鎖性はない。
「この空の下で」私の同朋意識は公共意識を何ら妨げてはいない。この同胞的感情は、より高次の関心についても、場の共有の可能性があるなら、言語の壁、文化の壁を越えて弱まりつつも広がってゆき、本質的には停止条件を持たない。(実際には、偶然的な停止条件が多々ありうるだろうが。)

確かにひとは自らのシステムを閉じ保とうとする保守性を持つ。自分の考えに固執する。仲間内で固まろうとする。それはコストやリスクの点から合理化できる点もあると思われる。

だが他方では、ひとは本質的に「開かれ」ようとする存在でもある。このいみで、公共的な存在だ。システムの向こう側を、想像し、システムを創造する存在だ。自らの文化システムを越え出て行く。
ひとは、言葉を発し、耳を澄ませ、手で触れようとする。自分の心を開こうとし、人の心を開こうとする。自らの外部に誘われ、自らに外部を誘おうとする。

この外部を志向する傾向は公共性のためだけだなく、共同性のための条件でもある。
どこで、この公開性が閉鎖性に転じるのか。
日常のルーティンのなかでの効率を上げようとするとき、ゲームの中でうまくプレイすることに集中するとき、ひとは開こうとする自らの本性を押さえつけるのだと思われる。

私自身の好みから言えば、現代の日本社会は、効率性を求める方に傾きすぎている。一定のゲームが設定され、そのなかでプレイし競争することが奨励されているように感じることが多い。
だがそれは、そのゲームを共有しない(したくない)者から見ると、ずいぶん閉鎖的に見えることだろう。それに窮屈だ。わたしにはしばしばそう感じられる。

もうすこしコストとリスクを引き受けても、公開性や創造性を生かした社会づくりに舵をとるほうが、私としては好みだ。