blog2735

Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

かもめ食堂&女王の教室

11月に見た映画。しばらくこのブログも書いてなかったので、ずらずら紹介していこう。

かもめ食堂』:大事なものを大事にしていくという、当たり前のことに気づかされた。
かもめ食堂フィンランドヘルシンキに、日本の若い女性がひとりではじめた、日本料理の食堂。物語は、その食堂をやっていく中で、小さな事件が変奏曲のように重なりながら、日常のなかで見失われがちな大事なものを、丁寧に拾い出して少しずつ磨きあげて、いつしかこちらにもそれが分かってくる。なかなか、いい感じの作品でした。
何か大事なことか。それは、ひとによって異なるだろうし、言ってしまうことは固定することになるから、言えません。言葉の「間」でそれを表現するところがうまい。

この作品は、食堂の持つ独特の「間」が、日本ならぬヘルシンキの町のなかで調和し、認められて市民権を得る物語として観ることができる。
これは、日本を支配しているせわしない「間」への批判であり、同時に、実際に存在しているかどうかはともかく、ヘルシンキの体制と食堂との「間」の予定調和的な関係を描くことで、体制と一致することの安定の美しさを極めて保守的にアピールしているともいえるかもしれない。
いや、食堂で「おにぎり」が受け入れられるまでの戦いに注意するなら、ヘルシンキの体制に対して、マイノリティたる主人公のさちえさんが戦いを挑み、言葉にならない「自分」と「間」を大切にして理解者を増やし、とうとう体制を変えたと見ることもできる。
ともあれ、主人公たち3人の女性の、アイディンティティをめぐる戦いが物語のひとつのテーマになっていることは明らかで、のほほんとした物語の背景に、3人のおそらく壮絶な過去がちらほらしのばれるのである。

女王の教室』:第5話まで観た段階では、なかなかよくできている。ある小学校6年生のクラスをモデルに、「体制」支配とその社会構造をうまく描き出していて、オーウェルの『動物農場』を思わせる。教育ってことも考えさせられる。教員は、親は、子供に対して本当に大事なことをどうやって「自分で」気づかせるのか。「ガバナンス」「参加」「自治」「倫理」「哲学」なんて、教えられるものなのだろうか。そういう疑問に一つの解答の手がかりをくれるのかもしれない。

その後、最後まで観た。その感想は以下。
鬼教師が過度にキレイに体制を代表することで、逆に現実社会の体制支配のやり方を意識化、相対化させる作品だ。その意図は成功しており、社会批評としても、自分自身が知らず身につけている思考様式を問い直す作品としても、成功していると言えるだろう。だが、学生のひとりが指摘したが、子供とは本来、もっとも反体制的な存在者であるはずだ。この作品のなかの子供たちは、確かに体制に反発するが、妙に大人びていて、体制の想定する反体制、すなわち体制に収まっているので、希望が見出しにくいし、下手をすると陳腐な「愛」と「民主主義」の体制的物語を描くに終わるだろう。大人が子供の反体制性を理解することは、原理的にできないはずだ。