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「自由啓発」という言葉

「自由啓発」は浜松高等工業学校の教育方針にあった言葉だそうだ。静大の理念として採用された。

「学徒を最も自由な境遇に置き、その個性を十分に尊重し、その天賦の才能を遺憾なく進展せしめるよう、これに適応せる手段方法をとるところに理想の教育があるとし、自由啓発主義にもとづき、生徒の素質、学力、性能等を十分考慮して教養する」だそうだ。

当時としては、まあ分かる。だが、現代ではどうだろうか。
「啓発」は、原語を知っている人には「啓蒙」と同義Enlightenmentと理解される。思想史的に見て、この言葉を上の意味で掲げるには、2点大きな問題があると思われる。

1点目。「啓蒙」というのは、方向付けというニュアンスがあって、「自由」という言葉とはあまり相性がよくないのではないか。
もともと、神(や教会)による神に向かう成長ではなく、また因習にとらわれた人生でもなく、人間理性による人間の自発的な成熟を目指したのが「啓蒙」だ。だからその意味では、確かに「啓蒙」は神と因習からの「自由」だと言える。
また、「啓蒙」が目指しているのは、、「自主的」「自発的」「自律的」という意味での自由には違いない。
だが、「強制」というニュアンスは「啓蒙」からは決してなくなってはいない。「啓蒙」は理性による非理性の方向付けということである。理性ある大人が理性の未発達な子どもを理性によって矯正するというのが、教育における「啓蒙」の基本的な姿だろう。
「啓蒙」が最終的に目指す人間像は、典型的には、地味だが良識と判断力があって、自己管理が徹底していて放縦には走らず、社会の義務をきっちり果たす、社会の構成員というイメージだ。
「個性」とか「天賦の才能」とかを「自由」と結びつけて強調するのは、むしろ歴史的に啓蒙主義を批判して現れてきたロマン主義(教育)の方だろう。
冒頭の文章を見る限りは、どちらかと言えば、堅実で合理的な自己管理の啓蒙主義タイプではなく、放縦というのではないが、自由と独創の個性的ロマン派的タイプが目指されているように見える。
とすると、「啓蒙」を、教育方針で掲げられているような個性重視の自由主義的な教育と結びつけるのは無理がありそうだ。

もう1点。「啓蒙」という理念は、歴史的には西洋理性中心主義的な植民地主義帝国主義と結びついてしまっている。
20世紀の人文社会学とは、それを批判して相対化する(あるいは批判しつつ擁護する)歴史であった。
共同体や伝統、自然の価値、文化や多様性、信頼、そしてジェンダーなどを強調する現代の論者は、「啓蒙」に西洋理性中心主義を見てそれを批判してきたのだ。
合理的個人のアトミズム、科学技術崇拝の進歩主義への批判が前提となっている現代、「啓蒙」という言葉はめったに使われない。「啓発」としても一部の人を欺くだけで、同じことだ。

実は、「啓蒙」の精神を拠りどころにこれらの課題に向かうというのは、たしかに思想的立場としては意外性があって面白い。
じっさい、人文社会学のひとつの潮流は、近代的一元的理性を批判しつつも、理性的批判的な啓蒙のエートスを保持し、多元的な理性のあり方を求めるものだ。
ガバナンスや公共哲学は基本的にこの路線上にある。
科学技術論も、近代の楽観的な科学技術推進ではなく、合理的な批判精神をベースにした社会的ないし公共的な科学技術の舵取りが求められている。

だがここで、「批判」や「理性」という言葉は用いられるが、「啓蒙」はやはり用いられないのが通例だ。
「啓蒙」という言葉には、西洋的男性的理性至上主義という特定のイデオロギーが歴史的に決定的にこびりついてしまったのだ。

というわけで、わが静岡大学の前身のひとつである、浜松高等工業学校の理念は、今ではそのままでは使いにくいものになってしまっているように思う(「間違ってる」とか、「ナンセンス」と言うのではない)。
あくまで、神や伝統からの自由であり、いろいろトライするという意味ではなく自己抑制する自律のいみでの自由であり、西洋理性一元論ではなく多元的な理性を認め育てるという意味での啓蒙であるというなら、保持することは論理的には可能だ。
だが、言葉がもつ力こそが言葉の意味であると考えるなら、現代という文脈では、この言葉に固執することは厳しいのかもしれない。

理念の文言は、生徒に強制せず自由な挑戦と自主的な努力を尊重する、そしてそうやって研究にしていくということなら、「自由啓蒙」でなく、単に「自由」でよいだろう。
そして、歴史や地域、仲間や社会を尊重し信頼し連帯しあって問題解決にあたるといういまの静大の理念も盛り込むなら、「自由と協調」ぐらいが、妥当だろう。
だが、ありがちかも。・・うっ。
といっても、伝統的な「自由啓発」はどうもいまや厳しい。

いまこそ、学生その他の静大関係者たちに大募集して、タップリと議論しながら、理念を自分たちで掲げるのはどうだろうか!