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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

社会構成をめぐって (前期共通科目『哲学』試験より)

今日は、全学共通科目の『哲学』の最終授業日。試験を行ないました。
問題は以下の通り。

A-1 社会構成された概念を一つ挙げて、それがどういう概念として構成されているかを解説せよ。
A-2 社会(の中のどいういう人たち)が、なぜ(何のために)、どうやって、それを構成したのかを分析せよ。
A-3 自分がその概念とどう関わっていきたいか考えよ。

B-1 社会構成を超越した価値があるという主張を、その例を一つ挙げて組み立てよ。
B-2 それに対する反論、批判を組み立てよ。
B-3 B-1、B-2を踏まえて、結論をくだせ。

この授業は、池田晶子の『人間自身 考えることに終わりなく』という本から話題やネタを探しながら、私自身がアドリブで、出席者と対話しつつ、哲学ライブをするというコンセプトでした。

「対話」という点では、100人を超える受講者で、なかなか難しかったです。
意見を求められる学生としても、大教室で突然指名されたらしゃべりにくいですよね。
自然、だんだん、私は本質的な発問をしなくなりました。
最初のころは、発問がんばっていたのですが、ただ、せっかく面白い意見をもらっても、しばしばそれを今度は私の方が十分に生かして議論を進められなかったのが、心苦しかったですね。
学生の短いコメントのもつ奥行きを、ひとことふたことで理解するのは難しく、また自分の思考の道筋と関係しているか無関係かよく分からない可能性が突然提示されたとき、どう対処すればよいかのとっさの判断が難しいこともありました。

「アドリブ」といういみでは、確かにパワーポイントや講義原稿的なものは使わなかったのですが、ある程度話題を箇条書きにしておいたり、概念図のようなメモを用意しておいて、基本的問題構造を解説したり、考えが詰まったら話題を転じたりしました。
そこで結局、当初授業設計したのよりも、ずっと穏健な授業になってしまった気がします。
メモ書きしているときに考えたことが、教壇に立ってみてもやはり自然になぞられ、まずそれをなぞってから、その先の問題に取り組むということに、どうしてもなりがちでした。
また、その場で問題に突き当たると、そうそうすぐにはよい考えは浮かびません。そこで、例えばこんな考え方があるね、などと紹介しているうちに、時間がなくなっていってしまうのです。

ですが、私自身の刺激とトレーニングにもなりましたし、授業準備と授業のアドリブで、私自身の考えも進んだ気がします。
それに、試験の解答を見る限り、出席していた学生たちも、ほぼA1-B3の問題設定のポイントを理解できていたと思います。
それは、ひとつ大きな成果と言えるかな、と。
こういう授業は、自分としても年に一つは続けたいと思いました。

当初は予測していませんでしたが、社会構成についてはずいぶんこだわりました。
池田さんの思想を、社会構成についての批判的な立場としてまとめたのは、私の解釈です。他の人であれば、テキストから別の思想を読み取ったでしょう。

試験では、この問題についていろいろな意見が出てくると思います。
私自身の立場を簡潔に示すなら、社会構成は作られたニセモノだからダメとも思わないし、社会構成は予定調和的に人間に幸せをくれるとも思っていません。
ニセモノ批判には、では社会構成から人は出られるのだろうか? と反論します。
楽観的な予定調和には、例えば、ヨーロッパのある時期に「ユダヤ人」という概念のもった意味を問います。

社会構成だからダメとか善いとかは一概には言えないでしょう。かといって、何でもありではなく、ポイントは、社会構成にも善い社会構成と悪い社会構成があるということです。
例えば、「ガバナンス」とか「情報学」といった概念が、社会構成とは独立に実体的に存在しているわけはないでしょう。よく、そういうものを求められる気がしますが、それはつまらない問いだと思います。どのように、その言葉が構成されてきたか、そして自分たちは構成していきたいか、いくべきか、それが問題なのです。

哲学は、しばしば「言葉の定義に関わる学問」「概念整理の営み」などと言われます。
私が社会に関する概念にこだわるとき、その構えは、概念をこれからどう設計し、どう使っていきたいのかという実践的かつダイナミックな観点に立っています。
この意味では、哲学は「理念形成の学」だと思います。
つまり、哲学はそれ自体、すでに実践的、応用的な学なのです。
概念がなければ、実証も設計も、成り立ちません。
そして、概念設計は、歴史への批判と未来へのビジョン、実証的フィードバック、自分自身の立ち位置や能力などなどを総合する、雄大かつ精妙な、やりがいのある知的営みだと(そうありたいと)思います。

「正しく、前向きであるための学」と言うこともできると思います。
それならば、どこで何をやっていても、心に哲学を失わないで生きていきたいものです。