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大学の理念と大学評価について

大学にとって、理念は大事なものだと思う。

大学は知的に創造的な活動の場である。
そして、それは、創造的な場である以上、外的な既存の指標では本来評価不可能な価値を多く秘めているものだ。

まずは、本質論からいこう。
大学とは、本来は、まずどのような知的な場であろうとするのかという理念があって、そしてその理念に共感する人びとが集まって、学び、考え、活動する場であるはずだ。
その理念を社会が認め、学生が集まり、研究者、教員、職員が集まるからこそ、大学は存在でき、国や自治体、企業はバックアップする。
理念は、大学の存在理由を表現したものであり、それ自身、大学を支える原因となるものだ。

次に、私の具体的経験だが、学生時代を思い出してみる。
私が学んだ大学では、「大志」(北大)と「自敬」(京大)が理念だった。
それは、大学全体のなかでなんとなく尊重されており、私自身もそれを内化しつつ、学生生活を送った。
いまなお、自分のなかにそれは生きている。
「伝統」と言えるものだ。

外的で定量的な評価基準は、一面的で、しかも本質を覆い隠す。
いまの日本において、社会的に存在する価値ある物事の多くがそうやって隠されてしまっていると感じるが、大学評価において、近年殊にこの傾向が激しい。
入学者の偏差値は受験生(とその親、指導者)のイメージや先入見を大きく反映したものだし、論文数は学会のヘゲモニーや小手先の論文数増大戦略など非本質的な要素に大きく影響される。資金獲得実績についても、文科省による明治以来の大学格付けや企業との親近性などに依存する。就職率や留年学生の比率が何を意味するのか、それを基準にするならハッキリと言ってもらいたい。
数値の意味がハッキリと説明されることなく、個々の大学で行われている諸活動を実際を身体で感じることのない官僚や世間によって大学が外的基準で評価され、知的活動が奇妙な方向に制御される。
それが、現在の大学評価のおかれた状況である。

その原因には、まず外的な事情がある。
大学が、商品であるか、工場であるかのように見なされていることだ。
大学は本来、知的活動する人びとの集団であり、単なる動物ではない人間一人一人と同じように個性を持っているはずである。
なのに、商品データとして他の大学と並べられ、偏差値などで価格がつけらる。
あるいは、文科省や企業からは、製品としての卒業生の就職率や留年しない率、卒業生の標準化され可視化されたスキル、下手したら資格やTOEICの点数など、品質管理的な側面ばかりが求められる。

大学を良くしたいという外的な要望は、じつはありがたいことだ。
そして、良くしなければという思いも分かる。
だが、商品や工場のように、価値や成果を数値化して、その中で水準を上げることが、大学を良くすることだと言うのだろうか?
大学に要望をぶつける産業界の人びと、官僚、親たちの受けてきた教育、受けたかった教育、望む人材とは、そんな標準化されて価格のつけやすいような、面白みのないものでよいのだろうか?
自分たちの受けた教育の中で、そのような側面に価値があったというのだろうか。再び大学で学ぶとしたら、そのような教育を望むのだろうか? 根拠の不明な流行的な基準やイメージに流されず、自らの経験からじっくりと考えてもらいたい。

そんな人材が求められてしまう理由を、今度は内部的な視点から考えよう。
大学には個性があって、その個性のもとに、個性的な人材を育て、世に送り出す、個性的な研究を世に送り出す。
本質論に戻るなら、それが知的活動を主とする大学の存在意義である。
大学が本来そのような場だとしたら、その大学のアイディンティティであり存在意義でもある個性が、どのようなものかを、自分たちで大事にし、教育・研究に反映させ、同時に社会にアピールしていかなければならなかったはずだ。

それが「理念」の役割だ。

静大がそれを怠ってきたのかどうか、判断することは難しいが、現在、大学の理念がどの程度学内外で共有されて、大切にされ、実践されているかについては、心もとない。
理念に値するものは、少なくとも、学風と言いうるような何かは、この大学にも、すでに歴史の中で形成されていると感じる。
だから、いまこの大学の理念を論じる動きがあるのは、すばらしいことだ。

数値化された、個性を押しつぶすような、権力とカップリングされた評価基準が、外的に猛威を振るう状況で、われわれにできることは、まず理念をしっかり共有し、その理念を大切にしつつ、活動を通じて自らの存在意義を社会に問うことだ。

いまこそ、静大の理念についてまじめに、注意深く、卒業生や在校生、教員や職員、頭をつき合わせて語り、考えたいものだ。
それを言語化し、意識化し、活動として現実化していく。
それ自体が、この県、この地域の知的活動全体において意義を持つ、知的な社会的創造であろう。