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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

「評価」にまつわる哲学的問題

最近、「評価」について考える機会がいやに続く。

まず、情報学部置き本システム「J-文庫」(情報学部-北生協へ向かう芝生の上に立て看板があり、2号館リフレッシュスペースに本棚があります。私も関わってるので、まあよろしく。)の計画を立てているとき、情報学部ISプログラムの学生から、システムを作るならちゃんと評価しなきゃという意見が出て、なるほどと思った。こういう企画は、ひとりよがりにならないってとこが大事かな、と。

またいつか、「ガバナンス」について、ゼミ室で学生二人が議論していた。こないだの院生の発表では「評価」という視点が抜けている。それでは、ガバナンスは本質的に損なわれてしまう(のか否か)が、論議されていた。興味深く思った。ガバナンスの試みには、評価が本質的に必要なものだろうか。私は、いろいろなケースについて考えてみることを提案したが、議論は収束せずにそのうちどこかに流れた(っけ?)。

そして、今度は学部の仕事で、カリキュラムについての改革案について、外部の方に来ていただいて、意見をいただいたていたときのこと。私は、われわれのカリキュラム(案)によってどのような成果が出るのかを、それなりに時間をかけて工夫して整理し、カリキュラムと関連付けて、学生や外部、そして教員自身にもアピールできるものを考えたつもりだった。だが、成果というなら、そこに評価基準や評価方法がセットになっていないとね、と指摘されたのだ。私の思考の死角を突く、もっともなご指摘であった。

「評価」というと、小学校時代の通知簿から受験、学会での論文評価や学振による研究計画の評価、その他、自分が学生の成績評価を出すのも含めて、もろもろの評価について、胡散臭くて、いやだなーと思うことが多かった。
本来、社会に透明性をもたらすはずの評価自体が、これほど胡散臭いものはないくらい、胡散臭い。
評価は、まじめにやろうとすればするほど、難しさが出てきて、困ってしまう。
ウィトゲンシュタインクリプキに帰される「規則のパラドックス」と呼ばれる哲学的問題が知られているが、評価には、まさにその問題が付きまとう。
評価の評価、その評価の評価、と、まじめに考えるほど、無限後退してしまうのだ。
しかも、「だから評価しない」「評価しようとすることが間違いだったのだ」「評価ってのは、結局単なる賭けだ」「単なる権力だ」ってことにしてしまうと、当初の意図が損なわれてしまうところが評価の問題の難しさなのだ。
(言語や文化に納得するという問題も、結局は同じことなのかもしれないが)

行政などでは、定量的な評価基準が、比較的明快で客観的なものだと思われているようで、さまざまな行政サービスについて、その成果がが指数化され評価されているそうだ。
指数化を全否定する気はないが、数値が一人歩きするなら、指数化などしないほうがよいのではないか。
だが、むしろ、数値を一人歩きさせて、思考停止に陥りたいがために、指数化を図っている気がすることも多い。

行政だけでなく、受験でもそうだ。
たとえば、受験生の適性やポテンシャルを試験によって数値化して、上から順に採っていく。それが、適切な評価法であるかどうかは別にして、それが受験者側と大学側にとって、便利な思考停止の方法であることは間違いない。
こないだ受験生と話していて気がついた。各大学につけられた「偏差値」がどうやって算出されているのかも知らずに多くの受験生は偏差値を頼りに自分の狙う大学を判断・選好していること。また、偏差値を参照して希望を出す受験生が多いほど、偏差値は自己循環的な心理ゲームとなり、現実の大学の評価から離れていってしまうことには、注意が向けられていないこと。
なのに、それで大学を選ぶなんて、あまりにもねじれていて、あまりにご無体なことではないか。。
まあ、こういう不条理を経験しておくのもよいことだ、なんて、世間や大学側などは言ったりして、たとえば集中力の高め方なんてアドヴァイスしたりするわけだが、それ自体がまさに問題に対する思考停止の典型であろう。

「評価」は難しい。
「行政評価」だけで、一つの学問的なトピックとなる大問題だ。
「教育評価」しかり。
だが、評価にまつわる上記の哲学的な問題を押さえない限り、多様な当事者たちが納得のいく水準で納得のいくような「評価」を提示することはできないだろうし、ガバナンスを納得のいく水準で「開かれたもの」にすることは困難だろう。

近年、社会的に「評価」が気にされるようになってきたのは、公平性や透明性などが意識されるようになったということの表れであろう。
だが往々にして、皮相な、場合によっては、巧みに捩じ曲げられた「評価」がそこここで導入されている気がする。
ここで、有効な代案を提示できないなら、よくわからん評価に押し切られてしまうほかない。苦しいところだ。