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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

EDINBURGH調査旅行 旅の途中で

学部の援助を得て、スコットランドの首都エディンバラにやってきた。
授業を担当している「ガバナンス」と関連して、このまちの市民参加、公共意識などを調査するためだ。

こちらに来て4日が過ぎ、いまのところ、調査のほうはまずまずだが、ひさしぶりに公務をゆっくり離れて、自分の時間をすごせて、のびのびできている。

こちらについた日は、もう夕方でばたんきゅー。
翌日は、泊まり先である妹がちょっとしたホームパーティを企画してくれ、それで、このまちの人や大学関係者、日本人でこちらで勉強しているひとたちと知り合うことができ、久しぶりのなれない英語でなんとかコミュニケーションしたりしているうちに、このまちの雰囲気ややり方に割りとスムーズにコミットしはじめることができた。
その後妹は仕事で忙しく、私はほったらかしだったが、パーティで知り合った人の助けを得たり、あとは勝手に動き回りつつ、自分としては、まああるていど調査はできたな、というレベルに、なんとかもっていくことができた。

文学部哲学科畑育ちで、社会調査などしたことがなかった私だが、今の職場に来てから、同僚の先生や学生たちからいろいろ教わりつつ、なんとなく社会調査なるものの雰囲気を感じられるようになっていた。
すでに一、二度、体験的に小さな調査をしていたが、今回は自力である程度お金をかけて、しかも久しぶりの外国で、調査をするはめになって、いったい大丈夫か? と思っていた。
確かに形にできるレベルの調査ができたとは思えないが、手がかりぐらいは得ることができたかな。

来てから、実はイースターのお休みで、大学や市役所、ボランティア・センターなど、インタビューしてみようと思っていたところは、実はやっていなかった。
そこで、イースターの間にできる調査を2件ほど、その他は、視察のような感じで3日を過ごしたが、今日は、一応まちの図書館と植物園に散歩がてら見には行ったが、ほとんど調査すら忘れてのんびり過ごしてみた。
ようやく、調査者、訪問者的な視点だけでなく、このまちで生活する側の視点をほんの少しつかんだ気がした。
せっかくイギリスまで来て、はじめてのヨーロッパなのにも関わらず、ただこのまちに滞在することにしたが、これはその成果かな。

このまちは、市民参加や公共意識がとても強いと聞いてきた。
こっちに来てみて思ったのは、「強い」というよりも、ただごく自然にそういう文化、生活があるんだなー、ということ。
たとえば、チャリティーショップがまちの表通りに軒を連ねており、しかもけっこういけてる店構え&陳列で、ごく普通に市民たちが入って買い物していく。
何の気負いもなく、調査にいったこっちが拍子抜けするぐらいだ。
ボランティアについても、似たような感じがあって、あすは調査可能最終日だが、もしボランティア・センターにたどり着けたら、そのあたりのことを聞いてみよう。

大学には、残念ながら、こちらに着いてようやく誰にインタビューすべきかがわかってきて急ぎアポ取りのメールを送ったので、間に合わない可能性がもはやかなり高い。
まちの中の大学、大学の運営について、おもしろいアドバイスが聞ける期待が高まっていただけに残念。
→わざと課題として残して、もういっぺん来ようかな(だめか・・)。

ここは、村上春樹の『世界の終わりと・・』に出てくる「まち」を思わせる古い石造りの、時間が止まったかのようなまち。
ただ、「世界の終わり」ではなく、生きているまち。
石造りの古い図書館の中には、市民たちが本を借りに来たり、勉強しに来たり。
大学や美術館は(可能な部分は)オープンで、つまり無料で誰にでも開かれていて(ただし、建物自体は完全にバリアフリーにはなりきっておらず、必要な人は館員に言って補助してもらう)、こんなところにも公共性を感じる(だから高い税金をちゃんと払うのだろう)。
教会もふだんは開かれていて、ゴシック式のホールに入っていくと、いくらでも椅子に座ってのんびりでき、ときにはパイプオルガンの演奏がある。

日本だと、価値のあるものはガチガチにガードされて、それで高いお金を払って、しかも並んでやっと見られるような絵、聞けるような演奏が、無料で、自然に、あるいみ本来の姿で、楽しめる。楽しむほうも力まず、自然体で楽しんでいる。
どうしてなのかな? その謎こそが今回の旅の究極のテーマだ。
その理由はどうやら浅くないらしいということを感じた。

妹とも話したが、人は、たとえばアメリカ文化を表面的に真似て、こっちでもジーンズをはいているいているが、見かけからはわからないくらい、その奥に深い根っこを持っていて、そのレベルですごく異なるのだ。
個人と個人の間でもそうかもしれないが、文化と文化の間には深い淵があるのだ。
日本での「ガバナンス」を考えることの難しさをあらためて自覚した。

私は元気で楽しんでいます。