blog2735

Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

郡上にて

郡上八幡。久しぶりに来ました。

今回は調査旅行ということで仕事に来たのだが、今日はまだ旅行日なので、夕方町を歩く時間があってよかった。
観光シーズンではなく、着いた時間も遅かったので、わりと町はすいていた。
職場では、春休みのほうがむしろ忙しいくらいで、次の仕事次の仕事で、お昼ものんびりとれない雰囲気だったので、この落ち着いた町を職場の先輩とゆっくり散歩しているのが不思議な気がした。
人間、たまにはこのような時間が必要だ。
それに、哲学をやるなら、このような時間を持つことが、絶対に必要な条件だと思う。
このような時間なしには、決して、ほんなわずかなものであれ、思想というものは生まれない。
仕事しているようでも、きっといつか枯渇してしまうだろう。
このまちは、そういうことを思い出させてくれる。

木造の古い家々が立ち並び、ひとのサイズの路地が縦横無尽にめぐっていて、夏には泳ぐことのできる清流、町を取り囲む親しげな山、お城、散策するひとびと、こういうまちの総合的な価値は、ものすごいものだと思う。
ひとがひとらしくいられるということ。
それを支える器であること。
歩いて楽しく、水と空気がおいしく、子供たちが安全に町中を走り回って遊びまわれる。川にも飛び込める。
水場や防災意識、祭りや伝統など、多くのお金に換算できない大切なものが、街中で共有され、大切にされている。
それは、けっして簡単なことではない。
この町ひとびとの高い見識と努力の表れだろう。

このような価値を評価できなかったのが、「戦後」あるいは「近代」の、一つの側面だと言ってよいだろう。
この形にならない価値を、表現しようと考えたことはあった。
しかし、それはとても難しいことだ。
それを「ふるさと創生(だっけ)」「町並み保存」「まちづくり」「コミュニティ形成」などの形で表現して、それを見失い、かえって価値を破壊してしまっている町も多いのではないか。
典型的なのは、たとえば、バブルのころに、お金をかけて、観光会社と提携して毒々しい観光開発に賭けたまちだろう。
いまや見る影もない。
キッチュとかゴーストタウンのほうがまだましというくらい凡庸なプラスティックな町になってしまっていたりする。

郡上の価値を表現しよう、表現してこそ計画的に、確実に価値を守り育てられるという考えがまちがっていたのではないか。
ふと、そんな気がした。
ウィトゲンシュタインではないが、価値は表現不可能である、あるいは、少なくとも表現可能であるとは限らない、そう言いたくなる。
だとしたら、それを何らかの形で表現して、計画的に守っていこうという近代的戦略は、そもそも出発点からして間違っていたと言うべきだろう。
私の仮説。守るべき価値は、それ自体として表現されることはなく、むしろ、暗黙にこそ共有され、守られるべき、前提なのではないか。
前提である以上、それをそれとして理解できる人にしか理解不可能なもの。
だからこそ、一番肝要であると言うべきもの。

ウィトゲンシュタインであれば、それはたとえばトートロジーという仕方で通常の意味を持たずに表現される、いやむしろ、「示される」と言うものであるのかもしれない。
それは、郡上ほどではないが、伝統の残る小さな村で育った私には、なんとなく分かるような気がするのだ。
この町には、町を形成する思想の、共有された暗黙のキーとなる何かが、トートロジーに例えたくなるような、なんらかの存在、あるいは行動様式、生活形式の核のようなものが、あるはずだ。

それを見抜き、それとして表現することはできなくとも、それをそれとして守るための、仕組み、文化、意識、ことば、を見つけ出すことができれば。
そう思いながら町を歩いた。

いわゆる正当な社会学、社会科学の社会調査法や思考法は私にはない。
だが、こうした現場から起動する哲学的思考というものがあるはずだ。
たとえば、このまちを形成する思想を論理化すること。
それは公理系のような形では整理できないのかもしれない。
物語りのような形式でしかまとまりようのないものなのかもしれない。
だが、何らかの形で、学問的に、普遍的に理解可能な形であるとは言えなくとも、少なくとも多くの常識を共有するひとびとに理解可能で、たとえば政治や政策をめぐるディスコースにも乗りうるような形に、「表現」ないし「示し」が可能でなければならない。
可能であるという保障はないが、そうでなければ、概念整理を手段とする哲学という学問は、この課題に対してまったく無力であるということになるだろう。
だから、それは要請として理解さるるべきものだ。