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マニュアらない、「理性」のオルターナティヴ

最近、「啓蒙」という概念についてよく考える。
子どもや野蛮は、「啓蒙」されて「理性」を持った「市民」となる。
そういうビジョン。

「啓蒙」とは古いモデルだ。
だが、全体主義や技術至上主義、管理主義などに抵抗するモデルとして、「公共」や「市民」などの概念が持ち出される。
そして、これらの概念は、基本的に啓蒙主義とセットのものである。

だが、現代、「啓蒙」ははやらない。
西洋近代の「理性」は普遍的に妥当するものであるという前提は、植民地支配のイデオロギーにもなるのだから。
むしろ、「多元的な理性」とか「承認」とかが、市民概念とセットで叫ばれる時代だ。

だが、その実質はよく分からない。
「啓蒙」というビジョンのように「普遍的に妥当する理性」を認めるなら、これを身につけた者として「市民」を定義し、市民の共同として「公共」を理解することができる。
また、理性や概念がどんな現場にも普遍的に妥当するなら、まず基本概念や理論を理性によって理解すれば、それは未知の現場においても適用可能なはずである。

私は、新しい電化製品などを購入するとまずマニュアルを読むタイプだが、たしかに電化製品の場合は特に「正しく」使うことで安全に性能を引き出して使用できることが多い気がする。
だが、周りを見ていると、マニュアルなど読まないでいきなり使い始める人も多く、その人たちでもたいていは問題なく使えるようになっているようだ。

私は、それをごく当たり前の光景ではあるものの、「すごい」「面白い」と感じる。いったいどうやって、製品や使用に関する知を獲得しているのか。
ゼロの状態から、人類に普遍的な理性を使って、大小の仮説を個人的に立て、それを使用のなかで検証しつつ、個人理論を構成しているのだろうか。

そうかもしれない。しかし、そうでもないかもしれない。
何か、その製品にまつわるローカルな文化があって、その文化を理解しているのかもしれない。
電化製品を離れてみるなら、むしろ、こうして人は、道具を理解したり、社会を理解したり、世界を理解するほうが多いのかもしれない。
この場合、製品を理解するとは、社会や世界を理解するとは、その使用法(サバイバル法)込みの、ローカルな知識を持つことでもある。

これを単純に、ローカルな理性によって、製品(社会・世界)の使用法を理解したとは言い得ないだろうが、他方、あくまで普遍的理性によって一般的な原理をまず押さえた上で+αとしてその応用の仕方を理解したと言うべきだとも限らないだろう。

とか、考えてみたが、いいアイデアが浮かばない。
何か、普遍的ならざる、しかし理性にも匹敵する人間の知的能力がある気がして、しかもそれがふとつかめるような気がしたのだが。
感情とか、直観とか、心情とか、共感とか、思想史的にはいろいろ注目されてきたのだが、またいまも注目されているようだが、それらは「市民」とか「公共」の果たすと期待されてきた機能を担うには足りない気がする。
西洋近代の理性という考え方を軽視するつもりもないが、原理-応用のモデルではどうもスッキリとおさまらない。

よく分からなくなってきた。まあ、このへんで。