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Yahoo!ブログ閉鎖によりYahoo!から移行しました。吉田の講義、考察などを書いていきます。

「日本」、「民権」と「ガバナンス」

しばらく更新が滞っていた。その間、研究や仕事の合間のちょっとした空き時間で読んだもの、考えたことについて、メモ程度に報告しておきたい。
これらは、「ガバナンス」に関わることである。
授業では明示しにくかった私自身の現在進行形の関心の一端を示しておきたい。

言及するのは以下の4冊。いずれも新書や文庫で、読みやすく、また安価で入手できる。

憲法押しつけ論の幻』(小西豊治 講談社現代新書
日本国憲法は占領軍によって一方的に押し付けられたものである(ゆえに改憲は当然)という言説に対して、明治期の日本の民権派によって構想されていた民権思想が、複雑な思惑と因果関係を経て受け継がれたものである、というストーリーを描き出している。

西園寺公望 最後の元老』(岩井忠熊 岩波新書
最後の元老である西園寺の老練な政治家としての人生を描き出す。日本における明治-大正-昭和期を、急進的な富国強兵-デモクラシー-ファシズム-敗戦という定番のストーリーに対して、成熟した外交と政治を展開しようとした勢力について、西園寺の思想や活動を通して描き出している。

『在日』(姜尚中 集英社文庫
著者自身の自伝的な記述を通して、ナショナルなアイディンティティについて問いかける小説(と私は読んだ)。その点は、「在日」ではない私にも伝わるものがかなりあり、評価できる。後半、著者自らがメディアにおいて提示した持論、すなわち6カ国協議の成否にこだわるのは、少々見苦しい。自らの「予言」が当たるかどうかはメディア的な名声にとっては重要だろうが。

『幕末・維新 シリーズ日本近現代史 戞憤羮緇\検ヾ簀反圭顱
西洋近代の圧力に抗する必要から、必然的に明治維新による中央集権的な近代国家「日本」が生まれた、という言説を、徳川幕府や諸大名、列強諸国の外交関連文書の実証により、相対化している。著者が列強の植民地化欲求をくじいたファクターとして評価するのは、日本が勢力均衡のハザマに置かれたという幸運のほか、江戸後期の民衆の持っていた経済力・技術力・政治意識・組織力、さらにはそれらと調和した江戸期の統治における完成度の高い参加と意思決定、情報収集・分析の仕組みである。

上の4冊は、いずれも、「歴史」や「国家」、「統治」に関して、単純すぎる従来の保守的ビジョンや革新的ビジョンを退ける。
そして、共通して保守派も革新派も無視してきたファクターを再評価しようとしているように思われる。
それは、国家主義的ではないが、啓蒙的とも言えない、経験や歴史に裏打ちされた、風土的・人間的な合理性の伝統である。
ポストコロニアル研究の成果を踏まえ、その上で独自の一歩を付け加えようとしているように思われる。

私にも、まだそれを十分な水準で明確に概念化する力はない。
だが、迎合的で教条的なガバナンス論や公共性論を批判し、人間本性への慎重な配慮を欠いた皮相な民主主義や市場主義(支持/批判)を相対化する手がかりにはなっている。

授業との関連で言えば、この手がかりは、私が授業で話した合意形成や参加の重要性を減じるものではないと考える。
むしろ、その内実について、自分の身近な生活から、想像し、創造していくための拠点となるものだ。

自律した個人の集合的な意思決定、そして統治原理としての主権という西洋からの輸入概念を全く否定するというわけではない。
それらは全くのファンタジーというわけではないだろう。
ただし、その単純かつ性急な適用には一定の限定をつけ、修正を考えようとするものだと思う。

まず理念としてのガバナンス論があり、その理解をベースに、それを批判して得られる現実的あるいは実践的なガバナンス論がある。
このステップを経ないガバナンス楽観主義/悲観主義はナイーブに過ぎると言うべきだ。
上の4冊は、そのステップを進もうとする場合、潜在的な力になるだろうと考え、ガバナンスについて考えたい向きに、夏の読書の一冊としてお奨めしたい。